ハマダ伝・最新版

作:濱田 哲二



『ハマダ伝・最新版』 その14 「フローズンマルガリータを、もう一杯」

一方、東京での私の毎日は、仕事とお酒の日々だった。
海外ロケの仕事も1年に1度以上は必ずあり、貴重な体験を色々とする
ことが出来た。実は、そんな仕事の中での体験をネタに創作した原稿が、
「カントリ-夫
人、紘子さん」同様、私の創作ファイルに残っていた。

この頃、広告を創ることが厭な訳ではなかったのだが、どうやらこの頃から、
受注して、得意先の顔色を伺って、ものを創るという窮屈さにいささか
ストレスを感じていたのは確かなようだった。
だからといって、その頃の私には、残念ながら職業作家として飯が食える
よう頑張ろうという意欲も、実力もまるでなかった。
しかし、何かを書かずにはいられなかったのだろう。そんな懐かしい原稿を、
やはり、この『ハマダ伝』用に手を入れ、短編に仕立て直してみることにした。

「フローズンマルガリータを、もう一杯」

フローズンマルガリータが、私の舌を滑らかにした。
ディスコのフロアでは、一緒に来た仲間たちがなかなかいい乗りで踊っている。
私はそんな彼等から少し離れたカウンターで、由美と二人で飲んでいた。
由美は、売れっ子のモデルだった。
「いやぁ、さっきのあれには驚いたよ」
「えツ、何がですか?」
「撮影の帰りのロケバスでさ、この曲知ってますかって、ウオークマンを
渡された時のことさ。流行(はやり)のロックなどを聴かされたらどうしようかと
身構えていたら、いきなり♪何も言わないでちょうだい〜だろ、やあ、本当に
参ったよ。由美のウオークマンに倍賞知恵子が入っているとは思わなかった
もの」
「あら、そうかなぁ。ロックも勿論好きだけど、私、日本の歌も好きよ。
古い歌には、ケッコーいい歌あると思うよ」
「嬉しいこと言ってくれるね。カラオケ歌謡曲派としては、若い人にそう言って
もらうとひと安心。由美とは変にカッコつけないで話せそうだよ」
私は心地好い酔いの中で、上機嫌にそんなことを言った。

それにしても今度のロケはラッキーだった。
ハワイの1月は雨季だから、天気待ちで、合問、合間の撮影を覚悟して
いたのに、連日の好天続き。予定していたスケジュールよりも1日早く
撮影は進んでおり、明日はいよいよ最後の撮影だった。
そんな解放感も少しあって、私たちは夕食の後もみんなすっかりリラックス
していた。

私は、フローズンマルガリータのお代わりを注文しながら由美に尋ねた。
「ところで由美は何歳(いくつ)なんだ?」
「女の子に歳を聞いたらいけないんだよ」
「別にいいだろ、こっちはもうオヤジなんだから…」
「本当は24歳。事務所に言われて18歳でオーディションに行く時も
あるけどね…」
あっけらかんと由美が言った。
「そうか決して若くはないんだ」
「酷い!でも、しゃくにさわるけど、そうなんだ。だからね、そろそろ次の
ことって、考えているんだ」
「次のことか…」
由美の言葉を、私は反芻(はんすう)しながら、
「東京では、ディスコはよく行くの?」と別のことを尋ねた。
「ううン、行かないワ。私、お金を貯めるのが趣味なんだもの」
屈託なく由美が言った。
「又、どうして?」
「あって邪魔なもんじゃないし、ちょっとやりたいこともあるから…。
だから、一生懸命お仕事をして、一生懸命貯めてるって訳」
「なるほど、由美はなかなかのしっかり者なんだ」
「そうだよ。嫁にいく前にまだまだやりたいことがいっぱいあるんだもん。
それに、モデルなんていつまでも売れっ子ではいられないし、
確実に年は取るんたから…」
「ヘェー、堅実なんだ。派手な世界にいる割に…」
「ワァー、オジサンぽいよ、その言い方。ダサい発言には気をつけるように」
そう言うと、「由美は踊りません」と私を促し、カウンターを立ち上がった。
フロアでは今も仲間たちが激しいビートの中で、楽しい汗をかいていた。
私たちもその踊りの渦に威勢よく飛び込んでいった。
由美の笑顔が、撮影の時と同じように美しかった。

そして、ひと踊りした後、私たちはホテルのバーに河岸(かし)を移した。
「♪踊り疲れたティスコの帰り これで青春も終わりかなとつぶやいて
あをたの肩をながめながら やせたなと思ったら泣けてきた〜
カラオケっていうと、この『大阪で生れた女』を歌う営業がいてね、
それがまた実にうまいんだ…」
私は小さな声でそのメロディーを口ずさみながら、突然そんなことを
言った。
「BOROでしょ。私も好き」と由美。
「そうそう大阪といえば、『大阪の女』の詞もなかなかなもんなんだ…。
知ってるかな?いしだあゆみが歌っているんだけど、♪まるで私を
責めるよに北野新地に風が吹く〜ってやつ?」
「それザ・ピーナッツの曲じゃない?さっきの私のテープにも
入っていたと思うよ」
「そうそうピーナッツも歌っていたっけ。あの詞の三番に
♪夢を信じちゃいけないと言った私が夢を見た 可愛い女は
あかへんわ〜っていうのがあるんだけど、いい文旬だと思うね」
「This is歌謡曲だね!ウン、由美も嫌いじゃないよ、その文句」
「そう嫌いじゃないか由美も。だったら、ちょっとばかり青春を
懐古しちゃっていいかな…」
「い・い・と・も!由美も本音で言っちゃうけど、クドくならなければ
大人のセンチメンタルってケッコー好きなんだ」
「そいつは嬉しいね。俺たちってこの歌の頃、大学紛争の真っ只中に
いてね、俺は日和っていたからあんまり挫折感はなかったけど、
本気で革命を夢見ていた奴等にとっては、70年、71年っていうとまるで
抜け殻のような気分だったと思うね…。あの頃って、もしかしたら全く
今までと違う価値観の世界が開けるのかもという、期待と不安でマジに
ピリピリしていたんだ。そうそう、1年半位全く学校には行けず、
残した単位もいい加減なレポートですぐに取れちまって、
厄介払いのように学校を追い出されて…。何が何だか分からないまま、
まだまだ世の中ではマイナーだったこのCMの世界に身過ぎ世過ざの
積りで潜り込んで…」
私はそう言うと、フローズンマルガリータを喉の奥に流し込んだ。

最初のニューヨークロケ以来、私は、ずっとこのカクテルに凝っていた。
それは、ニューヨークで、昔、私の会社にいたトランスレーター(通訳)
の女史に仕事を頼んだのが、このカクテルに嵌(はま)る切っ掛けだった。

彼女は現在もニューヨークにいて、某テレビ局の音楽番組の衛星中継の
コーディネーションなどをしている。その彼女にジャス・スポット、ブルー
ノートに案内してもらった後、グリニツジビレツジにある、旨いカクテルを
飲ませる店に連れて行って貰ったのが始まりだった。
そして、そこのフローズンマルガリータは、同じグリニッジビレッジで食べた
エスニック料理と共に、私にとって忘れられない味になってしまったのである。

「最初にこの業界に首を突っ込んだのは、コマーシャルフィルムの
ブロダクションでね。初任給が確か2万8千円だった…」
「それ何年頃のこと?」
由美がキラキラした目で、私に尋ねた。
「だから、70年安保で揺れていた1970年。まだカラオケなんて
なかったから、飲み屋に置いてあるギターで、暗い歌ばかり選んで
歌っていたね。黒の舟歌とか…」
私はその頃の記憶を、不思議な気持ちで思い返していた。
すると、いつしか私の心は、オアフにいながら新宿ゴールデン街から
二丁目辺りを、フラフラ、フラフラさ迷い歩いていた。
「そうそう、二丁目のオカマバーで、年寄りのオカマにいきなりキス
された時は思わず吐きそうになったよ…。区役所通りで1軒、
ゴールデン街で2軒、二丁目に流れてもう1軒と梯子して、柳通りの
ヌードスタジオでケツのケバまで抜かれて、給料なんかアッという間に
すっからかんさ」
「青春してたんだね」
「.ああ、青春してた…」
「由美は、今が青春真っ只中。さっき貯金が趣味だって言ったでしょ、
一生懸命お金貯めて、来年はニューヨークで英語の学校に入ろうと
思っているんだ…」
「そうなんだ。でもニューヨークは怖いところだから、十二分に検討を
重ねて行動した方がいいよ。どんな学校に入って、どんなところに
住んで、どんな事をするか。それには入念な予備知識が必要だし、
いろんな準備も必要だと思うよ…」
私は分別臭くそう言って、更に続けた。
「ニューヨカーには、不用意にビル側を歩くなという常識があると
聞いている。うっかりしてると、ビルの間に引き摺り込まれて、
物ばかりか、命まで取られるという悲劇が、現実のこととして起こって
いるらしいんだ」
「凄いんだね」
「そして、これも聞いた話なんだけど、ニユーヨークの高級マンションは、
入口にチェツクマンがいるのは当然で、エレベーターにもエレベーターマン
という専門のチェックマンがいて、不番な人間を二重にチエックしている。
それにもかかわらず泥棒に入られるというんだから、まったく恐れ入った街さ」
「でも楽しいこともいっぱいでしょ」
「ああ、その通りさ。ファツション、芸術、エンターテイメント、何から何まで
ニューヨークークほどエキサイティングなところはない」
「それなんだなあ、私を駆り立てるものは!」
由美はちょっと興奮気味にそう言った。
「だから、とにかく、お金。お金を貯めなくちゃ!
佐久間さん、又、CMのお仕事くださいね」
由美は営業しちゃったというように、ペロっと舌を出した。
そして、何気なく腕時計を見た。
そのホテルのバーからは、すっかり夜も更けて人気のなくなった
ワイキキ・ビーチが見渡せた。由美は、さっきから、もうカクテルには
口をつけていなかった。
私は、カウンターの向こうのバーテンダーに、
「フローズンマルガリータを、もう一杯」と注文した。
と、由美は、私に気づかれないように、一瞬、まだ飲むんだという顔をした。
そして、「明日も撮影、早いんですよね」と独り言のように言った。
私は、そんな由美をジッと見詰めながら、少し間を置いて、
「そうだね、由美はもう帰った方がいい。ボクは、もう少し飲んでいくから…」
と言って、微笑んだ。
これで何杯目だったろうか。フローズンマルガリータが、
大分、効いて来ていた。
どうやら私はこの業界に、少し疲れたものを感じているようだった。
由美は、仕事の顔に戻ると、「それじゃあ、お先します」と言って
立ち上がった。 どうでもいいように、「じゃあ、明日」と応える私の、
焦点を外した酔眼の中から、由美の後姿がゆっくりと遠ざかっていった。
その時、私の耳の奥でビーチの波音が幽かに騒いだような気がした。

<了>

実際には、どんな状況だったのかと、私が作った年表を見ると、
この頃の私は、以下のような仕事で海外に出掛けていた。

1985年1月(昭和60年)アサヒ生とっくり ニューヨーク・オーディション     
1986年2月(昭和61年)スコッティ、シンガポール・ロケ 
1986年11月(昭和61年 )ケンタッキー、ニューヨーク撮影、フィルマルコ
1986年11月(昭和61年 )アサヒ、レイベンブロイ、ニュージーランド・ロケ
1987年1月(昭和62年)スプライト、ハワイロケ(三田佳子編)
1987年3月(昭和62年)ケンタッキー、コンベンション・タイ
1987年8月(昭和62年)クアーズ・ライト、ロス、ハワイ・ロケ
1988年2月(昭和63年)アサヒスーパーイースト 渡辺謙編 
1988年2月(昭和63年)スプライト、ファミリー、ハワイ・ロケ

改めて思うに、正に、この頃が、広告業界での私の最盛期であったのだろう…。


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