ハマダ伝・外伝

作:濱田 哲二



『ハマダ伝・外伝』 その1 少年時代・下溝と磯部へ

『ハマダ伝』では、今までも折に触れ、子供の頃のことや学生時代のことを
書いて来たが、この外伝では、改めて、私の好きだった歌や、映画、ドラマ、
小説といったもののことを、私の少年期や青春期のエピソーを紹介しながら、
楽しみながら書き進めて行きたいと思っている。これって、どうやら久世光彦
著「マイ・ラスト・ソングの影響が大のようである…。

夏休み、私が相模原にあった2軒の親戚の家に1人で1週間ほど泊まりに
行くようになったのは小学校3年生の頃からだったような気がする。
(それからこの親戚ツアーは、夏休みと冬休み中学を卒業する頃まで
続いていた)

その1軒の親戚は、父の妹の家で、その妹が美容院をやっていた。
その美容院を手伝っていた川島さんという小母さんの娘でキヨコさんという
女性(ひと)がいて、このキヨコさんが小田原にあった美容訓練学校に
通っていた。このキヨコさんに相模線で下溝という駅のすぐ前にある浜田
美容室に連れて行ってもらったのが1人外泊の最初だった。

もう1軒は、父の弟の家で、下溝からバスで10分位の磯部という村にあり、
その叔父さんは厚木の米軍キャンプで働きながら農業をやっていた。
確か、この2軒の家には既にテレビがあり(わが家はまだなかった)、
それを見たさに出掛けて行ったところが大いにあった。

 

下溝の家には5人の兄弟姉妹がいて、上から男、男、男、女、女。
一番下の八重子ちゃんは、私より1つ下。
私より2つ3つ上の昌美ちゃんというお姉さんが私のことを良く可愛がって
くれた。芸能ごとが好きで、ソフトボールが強い学校のレギュラー選手だった。

磯部の家は2人兄妹。暁弘さんと佳子さんと言った。
美容院にはいつも平凡、明星があり、磯部の家にも平凡、明星の付録の
歌集が沢山置いてあった。
私は特に磯部の家に泊まった時は、昼、叔母さんが畑仕事に出ている合間、
昼寝などする前によく歌集を見ながら歌を歌っていたのを覚えている。
もうこの頃から、私は流行歌が大好きだったのである。

これ以前に、私が歌に接したのは、やはり童謡やラジオ・テレビ・映画の
主題歌。思い返してみると、私はこんな歌たちが好きだった。
これは、幼年期から少年期を通して気に入っていたと思える歌ではあるが、
大人になってからの思い入れも多少混じっている選曲になっているかも
知れない…。

どうやら私の場合、メジャーな感じの曲よりマイナーな曲が好みで、まずは、
りんごのひとりごと」である。これは、大人になってからUA(ううあ)の歌で
聴いてますます好きになった1曲だ。
そして、「赤い靴」。♪異人さんにつれられていっちゃった〜には、胸に
キュンとくるものがあった。それから、「あの子はたあれ」。これは故・小沢昭一
さんが好んで歌っているようである 。
そうそう、UA(ううあ)といえば、「月の砂漠」も好き。この「月の砂漠」は
それこそ多くの歌手が歌っており、小林旭も森繁久弥も歌っている。
旭といえば「めんこい子馬」、「ちんから峠」の歌が投げ遣りでなかなかいい。

叙情的な歌では、青葉の笛」、これは1958年製作 監督:稲垣浩
主演:三船敏郎、高峰秀子の「無法松の一生」の劇中にて吉岡敏雄
少年が歌う平家物語を題材にした歌である。他に「やさしいおかあさま」、
「花かげ」(これを歌っているのは安田章子時代の由紀さおり)、
「仲よし小道」、メルヘンチックな「夢のお馬車」、森の小人」、
♪今年六十のおじいさん〜の「船頭さん」、「里の秋」、「ペチカ」なども
好きだった。

次は、映画やドラマの主題歌である。
まずは何と言っても「笛吹童子」と「紅孔雀」。そして、「一丁目一番地」、
「ヤン坊、ニン坊、トン坊」、「赤銅鈴之助」、「月光仮面」、「少年ジェット」、
「まぼろし探偵」、「鉄腕アトム」。

それから、今や世界に向けて発信し続ける日本のアニメ文化の原点となる
白蛇伝の映像と音楽をYou Tubeで見つけた。これもとても懐かしかった。
この作品は、まだ日本が貧乏だった半世紀も前に、当時の東映とそこに
集まったアニメーターたちが志を高く持ち一丸となり手探りしながら創り上げ
た日本で初めての長編総天然色動画なのだ。

森繁久弥と宮城まり子が、全ての声・歌を担当し、世界の賞をいくつも受賞
しているという。私も子供の頃、リアルタイムでこの映画を小田原の東映劇場
で観たのだが、とても素晴らしい作品である。 その「白蛇伝」の予告編と、
音楽(森繁久弥と宮城まり子の歌声)は正に一見、一聴の価値がある。
更に、この頃はといえば、「ローハイド」だった。

ところで、わが家にテレビがやって来たのは、ご多分に漏れず、1959年
(昭和34年)4月10日、皇太子明仁親王と正田美智子さまのご成婚の
少し前だった。
それ以前は、ご近所とか、小学校の友だちの家、それこそ夏休みと冬休み
に出掛けていた親戚の家、ラーメン屋とか食堂(もちろん有料で何かを
食べながら)、電気屋を始めとする親切な個人商店の店先(無料)などで
見せてもらっていた。
ドラマやバラエティーの他には、プロレス、相撲、プロ野球が、少年の私たち
を夢中にさせていた。そして、映画もまだまだ元気だった。

私たち団塊の世代は、ご案内の通りやたら人数が多かった。
小学生の頃、私たちの学年は6組まであり、1組に50人前後の生徒がいた。
3年生の時は4組で、担任は小野仁先生といった。
この年の学芸会では、小野先生が事の他入れ込んだ、イギリスの文豪
ディケンズの「クリスマス・キャロル」を演ったのを印象深く覚えている。

「クリスマス・キャロル」は、1843年刊の中編小説で、その後数年にわたって
発表された5編の『クリスマス物語集』の第一作。
主人公スクルージは人情のかけらもないけちん坊の守銭奴だが、クリスマス
の前夜に、もと共同で事業をやっていた男の幽霊に会い、自分の過去、
現在、未来の姿を見せられた結果、己の罪を悔い改めて人間らしい心を
取り戻す。
子供にもなじみ深い物語であるとともに、「クリスマス哲学」とよくいわれる、
ディケンズの社会観、人間観を端的に示した作品。(Yahoo!百科事典より)

主人公スクルージを演じたのは、級長で、魚屋の仲買いの大店「鮑屋」の
息子、市川クンだった。私の役は、時間の経過を表す時計で、クリスマスの
三角帽子を被り、ボール紙で拵えた時計を持ち「午前2時」などと言うだけ
の台詞だったが、まずまずの役どころ。
確か、女の子から借りた赤いジャンパーが衣装だったと記憶している。

この小学3年生の時は、1956年(昭和31年)。正に、「三丁目の夕日」の
あの時代である。「ザ・20世紀」というサイトで調べてみると、小学3年の私は、
どうやらこんな歌を歌い、こんな映画を観ていたようだ。

<歌謡曲>

・「若いお巡りさん」(曽根史郎)(4月発売)
♪ もしもし ベンチでささやくお二人さん 早くお帰り夜が更ける 
野暮な説教するんじゃないが ここらは近頃物騒だ

・「東京の人よさようなら」(島倉千代子)(5月発売)
♪海は夕焼け 港は小焼け 涙まじりの 汽笛がひびく

・「リンゴ村から」(三橋美智也)[作詞:矢野亮](5月発売)
♪ おぼえているかい 故郷の村を 便りも途絶えて 幾年過ぎた

・「ここに幸あり」(大津美子)(5月発売)
♪ 嵐も吹けば 雨も降る 女の道よ なぜ険し

・「愛ちゃんはお嫁に」(鈴木三重子)[作詞:原俊雄](5月発売)
♪ さようなら さようなら 今日限り 愛ちゃんは太郎の 嫁になる 
僕らの心を 知りながら でしゃばりお米に 手をひかれ 
愛ちゃんは太郎の 嫁になる

・「哀愁列車」(三橋美智也)
♪ 惚〔ほ〕れて 惚れて 惚れていながら 行〔ゆ〕くおれに 
旅をせかせる ベルの音

・「どうせひろった恋だもの」(コロンビア・ローズ)(10月発売)
♪ やっぱりあんた
も おんなじ男 あたしはあたしで 生きてゆく

これらの歌を少年の私は、「平凡」や「明星」の付録の歌集に見つけ、
磯部の親戚の家では、昼寝もしないで歌ったものだった。
磯部の叔母さんに、「何故、昼寝しないの」と言われ、「蝉が煩(うるさ)
くて眠れないから」と言ったら、「お前の歌の方が、よっぽど煩かった」
と言われたことを、今でもハッキリと覚えている。
中でも、「若いお巡りさん」、「リンゴ村から」、「愛ちゃんはお嫁に」、
「哀愁列車」をよく歌っていた。

<ポピュラーソング>

・Don't Be Cruel (Elvis Presley)
・ Hound Dog (Elvis Presley)
・Heartbreak Hotel (Elvis Presley)
<ある自殺者の遺書を掲載した新聞記事をヒントに書かれた作品>
・Love Me Tender (Elvis Presley)
<映画「やさしく愛して」の主題歌で、エルビス初の映画音楽ヒット>
・My Preyer (The Platters)
・What Will Be, Will Be「ケ・セラ・セラ」 (Doris Day)
<映画「知りすぎていた男」の主題歌>
・Long Tall Sally「のっぽのサリー」(Little Richard)
・ Be-Bop-S-Lula (Gene Vincent)

などが流行っていたようだ。こうしてみるとエルビス・プレスリーの全盛時代だ。
これらのポピュラーソングは、歌謡曲ほどではなかったが、何となく覚えやすい
フレーズをいい加減聴き耳英語で口ずさみ、好きな曲は、中学生になる頃まで
には歌詞集などを手に入れ、より身近な歌にして歌っていたような気がする。

 

<観た映画>

・「ビルマの竪琴 」、「十戒」[米]

そう、この年、この2作は、リアルタイムで観ていた。
「ビルマの竪琴 」は、東映のチャンバラ好きな子供の私には荷の重い
映画だった。何故、こんな映画を観に来てしまったんだろうと、とても
後悔したような気がする。

この映画は、私の記憶では、宮小路という小田原の花町にあった
映画館で観た覚えがある(しばらくして閉館となった)。
この映画館は、日本映画も外国映画も上映していた。
確かディズニーの「砂漠は生きている」もこの映画館で観たと思うのだが、
映画館の名前は忘れてしまった。いや、復興館といったかもしれない。

この他に、小田原には、第一国道沿いに東映劇場、小田原日活、
洋画専門の中央劇場、松竹の映画を上映していたオリオン座があった。
東宝と大映は、現在の栄町2丁目の長崎屋百貨店のある辺りに二軒
並んでいた。後は、新東宝の映画の上映館がお堀端通りにあった。
この映画館の名前も忘れてしまったが、第一国道沿いに東映劇場が
出来る以前は、この映画館で東映の映画を上映していた。
他に、私の小説「海濱館」のモデルになった御幸座という、最後には
ピンク映画を上映していた小屋が、今の栄町4丁目の辺りにあった
(ここも、やがて閉館となった)。ところで、「ビルマの竪琴 」であるが…

帰国の途につく小隊のもとに、出発前日、安井昌二演ずるビルマの
青年僧が皆の前に姿を現す。
収容所の柵ごしに隊員達は『埴生の宿』を合唱する。
ついに青年僧はこらえ切れなくなったように竪琴を合唱に合わせて
かき鳴らす。彼は水島上等兵だったのだ。隊員達は一緒に日本へ
帰ろうと必死に呼びかける。しかし彼は黙ってうなだれ、『仰げば尊し』
を弾く。祖国のメロディーに心打たれる隊員達を後に、水島は森の中
へ去って行く。

このシーンに、少年の私は、見てはいけないものを見たような強い
ショックを感じたのを覚えている。日本人が、ビルマの僧侶として生きる
という決断がとても悲しかったのだ…。

一方の「十戒」は、本当に一大スペクタクル巨編として、感動しながら
中央劇場で楽しく観た。
この映画は、「旧約聖書」内「出エジプト記」を原作として制作された
セシル・B・デミル監督作品。
出演はチャールトン・ヘストン、ユル・ブリンナーなど。
海が割れ、その中をモーゼ一行が進むクライマックスシーンはあまりにも有名。
その特撮シーンには、子供心にこれがハリウッドかと目を見張ったものだった。

実は、この頃や青春時代の想いなどを歌詞にしたものがあるのでご紹介しよう。

帰り唄

 (クリックすると曲が流れます)


     作詞:ハマダテツジ

俺はあの頃 何してた
子供のくせして 唄ってた
平凡の歌集で 唄ってた
あの頃 良かったね
星は何でも 知っていた
あの頃 良かったね
夕焼け空は 赤かった
遊んで帰る 帰り道
エクボのあの娘は おさげ髪
あぁ〜

青春時代 何してた
ギター覚えて 唄ってた
マイナーコードで 唄ってた
あの頃 若かった
B級映画が 好きだった
あの頃 若かった
八月の砂 濡れていた
深酒呑んだ 帰り道
来た時よりも 遠かった
あぁ〜

そしてこの頃 何してる
やっぱり酒呑んじゃ 唄ってる
昔のあの唄 唄ってる
この頃 思うのは
遠いあの日にゃ 帰れない
この頃 思うのは
だけどあの日が 懐かしい
昔につづく 帰り道
唄っています 今日もまた
あぁ〜
昔につづく 帰り道
唄っています あの唄を


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