圓朝忌

作:濱田 哲二


          世にかくれたる名人あり。         
         こんな言葉をよく耳にするが、浮世とはやはり儘ならぬものなのだろうか。
         私はそんな感慨に、暫くまともに照りつけている強い陽射しを忘れていた。
         気が付いてみると、今朝、着替えたばかりのカッターシャツは汗でびっしょり
         だった。私は団子坂から電車に乗った。電車の中でもその感慨は続いた。

         昭和四十三年八月十一日。その道の人なら知らぬ人はないこの日は圓朝忌だった。
         近代落語中興の祖と崇められている偉大なる落語家、三遊亭圓朝を供養しょうと
         谷中の全生庵には大勢の人々が集まっていた。私が全生庵に着いた時はすでに
         法要が始まっており、私も末席に腰を降ろすと、大圓朝の冥福を祈った。
         法壇前には、文樂、圓生、正蔵、馬生と揃っており、控えには二ッ目連が勢揃い
         している。私はこの豪奢な眺めに、気が遠くなる思いだった。
         そんな時、作家で評論家の河井哲氏の隣に控えている楚々とした感じの夫人が
         私の目に止まった。美しい女性(ひと)である。
         私はけしからん事に、その夫人の美貌に一瞬大圓朝を忘れた。
         ハッと我に返ると、奉納口演、馬生の「鏡代」が始まっていた。
         馬生の熱演に、会場は水を打ったようにシーンと静まり返った。                    
         その後、もう一度読経があると、今度は書院で演芸会が開かれた。
         最前の厳粛なムードとは打って変わり、会場はなごやかなムードに包まれた。
         志ん朝が前座と一緒になってビールの栓を抜いたり、西瓜を配ったりしている。
         私はそんな中で、大胆にも美貌の夫人に近づいた。
         どうやら河井哲氏の細君であるらしい。
         馬生が河井氏に近づいて来ると、何やら一言、二言、挨拶を交し去って行った。
         私は又、つぶさにその夫人を観察し始めた。
         透き徹るような美しさである。
         私は見れば見る程、その夫人に魅せられていった。

        「遠藤さん、どうしました?」
         その声に、私は悪事が露見した子供のように、ぎごちなく身を竦めた。
        「大分あのご夫人が気になるようですな」
        「別に、そんな…」
         私の声は、相手にとって滑稽に響いたに違いなかった。
        「無理ないですよ、あれだけの器量ですから」
         圓丸は笑いながら言った。
         私はこの三遊亭圓丸とは、雑誌の仕事で一緒になったことがあった。
        「いつぞやはどうも…」
         圓丸はいつもの人懐っこい調子で言うと、又、夫人の話題を持ち上げた。
        「遠藤さん、あの夫人は河井さんの奥方ですよ」
         私は頷いた。
        「あの奥方に関しちゃ、我々仲間内だけの伝説がありましてね…」
         圓丸はしみじみ昔を想い起こすような口調でこう言った。
        「芸人の悲劇って奴ですかね。これを想い出す度につくづく因果な商売
          だと思いますよ。そう、あれはあたしが二ッ目の時でしたかね…。
         あたしらの仲間に小ふみという男がいました。
         色の白い鼻筋の通った、噺家にしておくにゃ勿体ない位いい男でしたよ。
         遊びに行っても、芸者衆なぞに、小ふみちゃん、小ふみちゃんと言われ、
          そりゃあもう馬鹿なモテかたでしてね。よくやっかんだことを今でも
         覚えてまさぁ…」
         私は何か圓丸の話にグイグイと引き込まれていくものを感じていた。
         圓丸は「暑いですね」と言いながら扇子を激しく動かしている。
         その手に浮き出た血管が全く別の生物ででもあるかのように、
         私の目に映った。
         圓丸は暫く間を置いて、ポツリポツリと続きを話していく。
         扇子の動きは相変らず忙しい。

       「何でも大学を中退したとかでね、前座時代はインテリ振りゃがってとか、
        やれ小生意気だとか、仲間からよくイビられてましたよ。ま、あたしも
        イビった一人だったんですがね。でも、我慢強い頭のいい男でした。
        圓左師匠ん所じゃピカ一でしたな。前座三年で二ツ目昇進。トントン拍子
        の出世をして、協会でも将来、大看板になるんではと、もっぱらの評判
        でした。ふみ吉から小ふみとなりましてね…。ま、一杯いきましょう」
        圓丸は空になった私のグラスにビールを注いでくれた。
        裂きイカを頬張ると、圓丸はひとしきりそれを噛み砕くことに専念して
        いるようであった。私は夫人の方に目をやった。
        そう思って見るせいか、表情は最前から全く変わらないような気がした。
        圓丸は手酌でビールを注ぐと、又美味そうに喉を鳴らした。
        そして、それがあたかも潤滑油ででもあるかのように、彼の口はさらに
        滑らかに回転しだした。

      「あれは確か…寒い時分だったから…そう、二月でした。あたしは夜席に
       出ていましてね、小ふみも一緒でしたよ。一席終えて、茶をすゝりなが
       ら仲間うちで馬鹿ぁ言ってたんです。高座は色物…そう漫才でした。
       次が小ふみの出でしたね。あたしが小ふみにその晩のだしもの演題を聞い
       てたところに、前座が来まして、小文に面会だと言うんです。
       楽屋に現われたのは誰だと思います?あの夫人ですよ。どうやら大学の
       時の同期だったらしいんですがね、若い頃もイイ女でしたね。
       パッと周囲が明るくなりましたよ、本当に…。でも、すぐ小ふみの出に
       なりましてね、ろくろく話しもしないうちに高座に上がったんですよ。
       あの女性(ひと)は隅の方で小さくなって…きっと、小ふみが早く下りて
       来るのを心待ちに待ってたんでしょうな。
       あたしらがご機嫌を取ろうとしても、ただ恐縮して笑顔を作るのが精一杯
       のようでした。それから暫くしてですよ、客席が騒々しくなったのは。
       小ふみが暫く絶句したらしいんです。小ふみは真っ青な顔で下りてくると、
       黙ってあの女性に近づき、もう来ないでくれと絞り出すように言いました。
       あたしは興味がありましたんでね、あの女性の顔をジッと見てたんですが、
       目許に幽かな痙攣が走ったようでしたが、しっかりした声で、さようなら
       と言うと静かに楽屋を出て行きました」

        宴は酣(たけなわ)だった。
        河井氏が夫人を促すと立ち上がった。
        私は圓丸の話の腰を折らないように気を使いながら口を開いた。
      「どうです。我々も出ませんか。ぶらぶら歩きながら続きを聞かせて下さい」         
       圓丸も退け時と心得たのか、そうですなと言うと立ち上がった。
       二人で圓朝と鉄舟の墓参りをすると、木陰を捜して腰を降ろした。
      「それからどうなったんですか、小ふみという人は…」
      「人が変わったようになって飲み歩いてました。あたしも心配になって、
       時々何気なく聞いたんですが、あの女性のことはそれから一言も言いませ
       んでしたね。その頃からですよ、仲間内からこんな話がポッポッ言われ
       始めたのは。小ふみにキツネがついたなんてね。芸は荒れる一方ですし、
       もう見る影もなくなっちまいましたよ。ところがですよ、半年位して
       小ふみの奴、ピタっと酒ぇ断ちましてね、そしてあたしの師匠の圓生ん
       所へ毎日稽古に来出したんです。それも、事もあろうに『死神』教えて
       くれってんですから、師匠も呆気に取られてましたよ。『死神』って言ゃあ、
       大ネタですからね。でも人の一念てぇものは恐ろしいですな、
       やがて師匠も折れて、小ふみに『死神』教え出したんですよ。
       あたしら弟子にもそう簡単に教えちゃくれない代物をですぜ…。
       そして、あれが…そう、丁度、十年前の今日ですよ。
       小ふみが本牧で一人会を開きましてね、トリで『死神』を演りました。
       実に上手かった。同業でさえ惚れ惚れしましたからね。
       噺も丁度終わりに近づいて、灯り直しをして、例の仕草落ちですよ…。
       消える、消える…バタッと倒れた時、あたしは思わず心の中で叫びました。
       名人!と…。
       その日はやはり圓朝忌だったでしよ、あたしは園朝大師匠が小ふみに乗り
       移ったような気がしてなりませんでした。高座を下りて来た小ふみの満足
       そうで、その癖放心したような顔が、今でも目に焼きついてます。
       そして、その後大変なことが起こったんです。
       本牧の帰り道、小ふみは広小路の信号で、向こうから来た車に撥ねられて…、
       即死でした。ありゃあ果して事故だったんだろうかって…あっしらの間じゃ、
       暫くその話で持ちきりでした。それは、あの女性(ひと)が河合氏の奥方に
       なった直後のことだったんですよ。河合氏が文学の大きな賞を貰った時期で、
       師匠連中を沢山呼んで帝国ホテルで、そりゃあ大した披露宴だったそうです」
        と言って首を捻った圓丸は、いくらか青ざめた顔をしていた。
       私の耳元に一時に蝉の鳴き声が襲って来た。若くして死んだ名人小ふみ。
        キューツと胸が詰まる思いだった。
       圓丸は気を取り直したように笑顔を作ると、
      「やぁ、詰まんないことを聞かしちまいまして」
       と言って頭を掻いた。
      私は何か言おうとしたが、とうとう言葉にはならなかった。
      圓丸は尻の埃を叩くと、
     「それじゃあ遠藤さん、あっしはこれで…まだ人形町の仕事がありますんで」
       と静かに言った。
       葉陰から洩れる強い光が圓丸の輪郭を捉えた。私に会釈して、遠退いていく
       圓丸の後姿がたまらなく淋しそうだった。私はしばらく茫然としたまゝ、
       圓丸の話を反芻していた。
 
        チンチンと懐かしい音をたてゝ電車は停留所に停まった。
       私は電車を降りると、ブラブラ歩き出した。車道には自動車が長蛇の列を
       作っている。近代的なビルデイングがきつい夏の陽射しに輝いている。
       目を細くして現代を眺めた。今の私には刺激が強すぎるようだ。
       鈴本の幟が嬉しかった。木戸を潜ると、私はホッとした気持になれた。

       その日、トリは圓生の『死神』だった。

        

        この「圓朝忌」は、私が二十歳(はたち)の時の作品です。
       ステレオタイプとは言え、まずますの出来のような気がします。
       あの頃はまだ、人形町の末廣亭があり、千駄木の辺りをチンチン電車が
       走っていたのだなと、今となっては感慨深いものを感じてなりません。


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