ハマダ伝・最新版

作:濱田 哲二


『ハマダ伝・最新版』 その20 蕎麦談義と年賀状

私が梅里に引っ越して来たのは43歳の年だった。
この年は、戸沢さんと一緒に建築物を見に行ったり、民芸館や美術館に
行ったり、グルメツアーをしたりと、4階さん、戸沢イズムにズッポリと
嵌まる1年となった。

それは、蓼科から帰って来て数日後のある土曜日のこと。大学の同期、
この『ハマダ伝』ではお馴染みのユウジがぶらっとわが家にやって来た。
ユウジが、梅里のわが家に遊びにくるのは二度目である。一度は引っ越し
てすぐ、家族で来てくれ、今日は一人でぶらっとやってきたのだった。

その頃、ユウジの実家はこの高円寺で、母上が歯科医を開業していた。
この日は所用でその実家を訪れた帰リに、私の家まで足を伸ばして
くれたのだった。
学生時代は、酒を飲んではよく南高円寺にあったユウジの家へも
宿泊させてもらったものである。そんなことを思うと、やはりこの高円寺
には何か縁があったのかも知れなかった。

「玄そばの石とり、粒揃え、皮むき、そして石臼挽きまで、すべてに拘る
自家製粉でしてね…」
と戸沢さんが言った。
土曜の夜、例によって酒盛りの相手に戸沢さんも加わってもらい、
私とユウジは上機嫌だった。
最前から蓼科山荘の話をし、その蓼科で脱サラして蕎麦屋を始めたという
「科野家」という手打ち蕎麦屋の話が続いていた。

場所が信州信濃ということと、蓼科の科と、野趣にあふれる家ということで
「科野家」にしたという屋号の由来から始まって、手打ちの麺の薀蓄に
かかったところだった。
「何でも1分間に30回転するというゆったリとした速度の石臼で、
香りを損なわないように、ていねいにていねいに製粉するのがミソ
らしいんだがね…」
戸沢さんはそこで言葉を切ると、ぐい呑みの酒を一気に呷った。
酒は戸沢さんが上から運んできた菊姫の吟醸だった。
「蕎麦は、こね、のし、切リ、この三つが大切だと言いますね」
ユウジも食に関してはなかなか詳しく、そんなことを返した。
「それにつゆ、科野家のつゆは1週間ほど寝かせた本がえしと、
削リたての本節でとった出汁でつくるから、コク、香りとも申し分ない。
その癖口当たりはサラリとしているんですよ」
「いいつゆは、そば湯を入れても芯がしっかリしてるからボケない
っていいますもんね。その科野家の蕎麦、ぜひ食ってみたいですね」
「美味かったよ、本当に。そうそう、この中央線沿線だと、こないだ
戸沢さんに連れて行ってもらった本むら庵も美味かったな」
私が言った。
「あそこは、そばがきもいいよね」
ユウジも行ったことがあるようだった。
「魯山人作の徳利など陳列してあったリしてね…。あそこで飲む剣菱の
樽酒もなかなかだったな」
「店の雰囲気もいいし…」
「そうそう、それから私の会社のあるビルの地下にくろ麦っていう蕎麦屋
があってね、ここももケッコーいけますよ。今度お近くにいらした際は、
ぜひ試してみてくだださい」
私が戸沢さんに言った。
「麻布十番の元気なお婆ちゃんのいる藪でしたっけ、更科でしたっけ…」
「ンー、あそこもいいね」
「それから店を閉めちまった狸穴そば」
「狸穴そばね…」
「店の造リがよかった」
「松本のもときとか、弁天本店も良かった」
ユウジはつい先日松本へ行って、食べてきたのだという…。
「それ知らないな一度行ってみたいね。松本は去年ちょこっと通り過ぎた
だけだから、今度ゆっくりと…」
「新橋でいうと、志な乃もいい」
新橋はユウジのシマだった。彼は10年ほど前から新橋で、趣味が高じて家庭
中国菜居と銘打った飲食店を経営していた。
「銀座のよし田。出勤前のホステスさんがよく食べている…」
「日本橋室町の利久庵」
「上野の蓮玉庵」
「西神田の一茶庵」
「浅草の十和田…」
出てくる出てくる、みんななかなかの蕎麦食いだった。

「ところで、いいでしょ、3階さんちのこのテーブル」
と戸沢さんが話題を変えてユウジに言った。
「木曽は御岳の奥村さんの家具なんですがね、素材は栗で、
無垢のままっていうのがね、いいんですよ」
「私も、とっても気に入っているの」
そう言いながら、家人がテーブルについた。どうやらキッチンの方が、
一段落したようだった。
するとラッキーも自分専用のソファーから起き上がると、
私たちのテーブルに近づいてきた。
「ラッキーは、もっと寝てればいいのに」
家人がラッキーに言った。
ラッキーは、そんな家人の言葉をまるで無視したように、
大きくひとつ欠伸をした。
「ラッキー、ほら、こっちへおいで」
戸沢さんがラッキーに、家人が焼いたチャーシューをやっている。
ラッキーが旨そうにパクッと一口で食べると、
もう一枚くれとばかりワンと吠えた。
「もう一枚だけよ、ラッキー」
子を諭すように、家人が言った。
「もう一枚だけだとさ、ほら」
戸沢さんは、ラッキーにはいつも大甘だった。
「このテーブル、オカラで研くのよ」
と、家人が、テーブルのことをユウジに言った。
「なるほど、オカラでね」
「塗装してない無垢の素材って、自然に焼けてきて段々いい色に
なってくるっていうからそれも楽しみ」
そんな話しをしていると、戸沢さんの奥さんも4階から降リてきた。
「いらつしやい」
私たちが言った。
「おじやまします…」
そう言って腰を降ろした奥さんにぐい呑みを選んでもらうと、私が酒を注いだ。
「今まで、蕎麦談義だったのよね」
「蕎麦ね…。上荻の」
「そうそう、本むら庵もでてました」
家人が応えた。

 

「そう言えば、ここんちには蕎麦猪口が沢山あるんだよな」
とユウジ。
「そうなの一番新しく買ったのがこれ、染付竜文猪口。
新井薬師の骨董市で見付けたのよ」
家人が言った。
「あの花唐草も素敵よね」
と、奥さん。
「あなたが京都の新門前で手に入れた奴ね。私も好き」
「そのみじん唐草は、どこで見付けたんだっけ?」
私が備え付けの食器棚の中を指差しながら言った。
「みじん唐草は新井薬師だったかな」
「印判だけど、五個揃った桜模様も、結構いけてるんだ」
「垣根割りは、蟷唐と並んで蕎麦猪口の定番。谷中のお婆ちゃんちに
行った時、近くの骨董屋さんで見付けたの」
「うちは作家の土ものや李朝が多いんだけど、3階さんは染付けが
中心だから…」
と、戸沢さんが、錦手のぐい呑みを掲げた。そして、
「ユウジ君ねえ、建築家というのは、そこの家を設計する前に、
食事に招待してもらうんです…。つまりどんな食器を使っているかな
んてなことが、その人を識る上でとっても大切になってくるんだな、
これが。例えば、ここんちですがね、伊万里もそうだけど、ロイヤル
コペンハーゲンね、このあたりの趣味で濱田家の好みみたいなものが
汲み取れてくるんですよ。それを設計に生かしていく…」
「なるほどね」
「この模様何て言うんだか知らないんだけど、こいつも好きだなあ。
これも京都の新門前で求めたんだけど、ニュウが入っているんでとって
も安かったんだ。この位のニュウは普段使いには何の支障もないからね」
私が話しを、又、器に戻した。
「小田原城の骨董市で見つけた、これも大好きなの…」
器の話になると、いつまでも盛リ上がってしまう、私たちだった。

「新井薬師っていえば、今度はラーメンの話なんだけど…、
高揚っていうお店行ったことあリますか?」
私が戸沢さんに尋ねた。
「ないですね」
「俺は行ったことあるよ」
ユウジが応えた。
「映画評論の荻昌弘が、時々行ってたようだよね」
「ン…、ものの本によると、食通の彼にしてうむをいわせないラーメンと
言わせしめたそうだからね、一度食べてみなければと勇んで行ったんですよ」
「医食同源て言うの…漢方の素材でつくったスープなんだよね」
「ほー、で、旨かったですか」
「スープはよかったんですが、手打ちの平麺というのが、
ボクにはもうひとつでした」
「高円寺だと、大三元。あそこがいい。煮干しのだしがさっぱリしていて」
「僕は、ホープ軒とか、ザボンとか、げんこつが好きだな」
「荻窪の丸福、春木屋、大学で同期だった漢君の家がやってる、
漢珍亭もなかなかだよね」
「熊本ラーメンだったら、新宿の桂花。博多ラーメンは、霞町の赤のれん。
辛さでいくなら、新宿利しりのオロチョンラーメ一ン」
「恵比寿の恵比寿ラーメンはさっぱリしてていいし、香月も捨て難い」
「渋谷のチャーリーハウスもベリー・グーですしね」
なんだか話は突然、ラーメンになってきていた。

今思うに、この頃とラーメンの好みは大分違っていた。
歳のせいか、最近では、さっぱりとした中華そば風が好きになっている。
それでも、桂花、赤のれんは脂っこくても今でも大OKである。
そして、この頃も、今も、飽きずに同じような酒飲み話に興じている
自分に気づき、思わず苦笑せずにはいられない私だった。

1992年(平成4年)。この年の後半は、めまぐるしく過ぎていった。
夏の終わリには、恒例の高円寺阿波踊リがあリ、家人の母である谷中の
お婆ちゃんが、それを見にやって来て、わが家にゆっくリ3泊していった。
その後、私は、ビールの仕事で、アメリカはユタ州のキャニオンランドに
ロケに出掛けたリして10月を迎え、今度はドイツから始のホームステイ
・フレンドの、それは大食いのお嬢さん、ジョセフィーヌがやって来た。

 

そして、秋も深くなった頃、家人と綾さんの主催で、アンテイーク食器の
ホーム頒布会(私の考えでは、この頒布会の開催が、後々、ギャラリー工
【こう】をやろうという考えに繋がっていったような気がしている)を催したり
していると、早いものであっという間にクリスマスになり、年の瀬となった。

 

そうなると、もう年賀状の季節である。来年の干支は「酉」。さて、今度は、
どんな内容で追ってみるか…と、思案を巡らせていた。調べてみると、この
頃数年の年賀状は、干支ソングという趣向でご機嫌を伺うことが多かった。

1987年。兎年。「ウサギがサンバ」

1988年。辰年。「タツノコソング」

1989年。巳年。「ラブ巳てんでー」

1990年。丑年。父の喪中で賀状は休み

1991年。未年。「ひつじの歌」

92年は、住所変更のお知らせを兼ねた賀状だった。
そして、いよいよ私は、93年版の賀状の制作にかかろうとしていた。

「今年の年賀状は、どんな趣向でいくのがいいと思う?」
私が、アイロン掛けをしている家人に言った。
「どうせまた変なこと考えているんでしょ」
「まあね。くだらないんだけど、結構好評でもあるからね、
干支ソングシリーズは…」
「それじゃあ、恒例で干支ソングシリーズをやるっきゃないん
じゃないの」
「お前もやっばリそう思うか…」
「そんな風に念を押すように言われると、ちょっとね」
「じやあ、どうしたらいい?」
「でも、もう決めてるんでしょ」
「まあね…」
私は、そう言いながら、熱いお茶を飲んだ。何となく文章というか、
コピーというか、リリックというか、とにかく年賀状の内容を考えよう
としていたので、アルコールはちょっと控えていた。
「あっ、笑っちやうよ、1976年の年賀状が出て来たよ。ひと昔前の
辰年だね、干支ソングの原点をいくかぞえ唄スタイルとでも言うん
だろうかね…」
と言って、私はクスクスと笑った。

「ひとつとやーひとリ娘は8カ月もすこしすれば足がタツ…」
「へえ、高井戸にいた頃のだわね」
「そうだな。ふたつとやーふたりしみじみ話すのはいつになったら
家がタツ…だってさ」
「なんか、貧乏臭いわね」
「窓にGパンきゃ干してなかったから、近所の人に俺がペンキ屋
勤めに間違えられたって、お前言ってたよな」
「あったわね、そんなことも…」
「みっつとやーみればみるほどイジらしく奥歯噛みしめ酒をタツ」
「嘘っばちもいいところだわ」
「うるさいね」
私が、ポンと言った。
家人は、私のチエックのYシャツを畳んでいるところだった。
「よっつとやー夜の夜中に飲んだくれ車で帰るは腹がタツ」
「ほんと、腹が立ったわ」
「こういう文句を書くっていうのは、悪い、悪いって、
心から思ってたんじゃないのかな、俺って」
「よく言うわよ」
「いつつとやーいつかみていろ俺だって天下取るぞといきリタツ。
むっつとやー昔話に花が咲き友よよく来た時がタツ。
ななつとやーななつ転んで八で立つ達磨になろうと思いタツ」
私がそこまで読むと、どれどれどれと家人が葉書を取った。
「やっつとやーやっばリ買うと高いから自分でムスメの服をタツ。
ここのつとやー心に誓って貯めますと妻はへそくリ蔵がタツ。
なんか、やあね…」
「しまいとやーことしも一年健やかに笑顔で迎える春は辰。か…。
切羽詰まってることもあるけれど、結構頑張ってていいんじゃないの」
私はそう言いながら、あの頃の暮らしを懐かしく思うのだった。

「で、今度のやつはどうするの?」
「酉年だから、やきとリの唄だな」
私は、突然、そんなことを口走っていた。
「そうだ、やきとリの唄にしよう」
私の頭の中に、またくだらないアイデイアが、膨らみはじめていた。

1993年。酉年。「やきとリの唄」

♪つくねや手羽先
塩よリタレ味
お宅はいつもどうしてる
カワとか砂肝
タレより塩味
わが家はいつもそうしてる
だけど今年は気分を変えて
カワにもタレ味
つくねに塩昧
今年はトリ年
好みはトリドリ
一年気ままに過ごしましょう♪

と、文句を創ると、「いつでも夢を」のメロデイで口ずさんでみてください。
ささやかな庶民の幸せを感じたりして…と、結んだのだった。


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