ハマダ伝・改作版

作:濱田 哲二


『ハマダ伝・改作版』 その18 目次  

8月の屋久島へ  
島暮しの夢
そして、屋久島へ
ドラブで島を一周

8月の屋久島へ 

さて、この「東京リターンズ」の章で書いていることは、以前、したためていた、「私の東京物語」という創作物の中からピックアップしたもの。この頃の私は、仕事的にも、生活的にも、まずまず安定し、梅里での暮らしを享受していた。が、改めて考えてみると、それまでズッと右肩上がりだった広告業界に、何となく陰りのようなものが見え始めたのは、実は、この頃からだったのかも知れなかった。

そう、世の中には、不況の風が吹き始めていた。月刊誌「プレジデント」の新しい号の特集は、『闘うこころ「元気な男」はここが違う』と、『「管理職切リ捨て」に異義あリ』が、2大テーマだった。私自身も一応管理職の端くれで、ベビーブーマー、いわゆる団塊の世代。特集・「管理職切り捨て」に異義あリの、「ミドル冬の時代」を生き抜く知恵という項目を読んでみると…

仕事では自分の得意分野を徹底的に磨き、社外でも通用する能力を身につけよ。生活では年収の二分の一で生活することを心掛け、会杜に東縛されない精神的自由を持て。自分の人生を百年単位で考えよ。ベストセラー『パワーミドル』 の著者が提言するミドル受難時代の生き方。

などというサブ見出しで、それは始まっていた。

Mさんが60歳の定年を1年後に控えて、わが社のアーリー・リタイアメント(早期退職制度)に応じて退職を決めたのは、その頃だった。退職条件のよさによる決断だったのだろうが、やはリ肩叩きに屈したという感は拭えなかった。そんなMさんと、中途入社の時Mさんにお世話になったというYクンを交えた3人で、正式の送別会とは別に、お別れの酒宴を持っことに。場所は、新橋のユウジの店だった。

「知合いの伝手で会社を30社程廻リましたが、全部駄目だったよ」
世間話を中断させて、Mさんが言った。
何となく悲哀のこもった言い方だった。
「もういいじゃないですか、しばらくお休みになられたら」
と、私は、無責任にというより、Mさんを励ますつもリで言った。
「でも、カラダだってピンピンしてるし、何かいい話があったら
よろしく頼みます」
とMさんは、新しい働き口のことで、若輩の私たちに頭を下げられた。
そんなMさんの態度に私は、少し心が痛むのを感じていた。

制作局で同じ時期に退職する人は他にも何人かいた。その1人は韓国の広告代理店に伝手があリ、もうあちらに旅立っていた。もう1人の方はアートデイレクターで、アクセサリーのデザイナーとして一本立ちを。又、これを機会に広告デザインの個人事務所を開かれた先輩も一人いた。が、Mさんには、そういう特技は持合わせていらっしゃらない様子。今まで培ってきた自分の経験を同業の他の会社でもう暫く生かせたらというのが願いのようだった。

「僕だったら、退職したらもう働きませんね。好きなことをのんびリとやって
いきたいから。ほら、この頃よく言われている、人生二毛作ってやつですよ。
南の島かなんかに移住して潜ったり、釣リしたリ、気楽にやるなんていいじゃ
ないですか」
Yクンが言った。Mさんは黙ったままだった。
「南の島か…。それはいいなあ」
お気楽に、私が応えた。が、この時、漠然とではあるが何となく考え始めて
いた第二の人生への思いが、突然、頭の中を巡リ始めていたのだった。
「いいですよ、南の島は。西表とか、宮古とか、石垣とか」
「なるほど、沖縄ね…」
私は、Yクンと、自給自足の暮らしのことを、Mさんのいるのも忘れて、
一頻 夢中になって話したのだった。
お別れの会だというのに、Mさんには失礼なことをしてしまったのかも
知れなかった…。

島暮しの夢 

そんなことがあってからというもの、私はしばらく熱病にでもかかったように、島暮しの夢を見続けていた。そして、筑紫徹也のニュース23の特集で偶然に見た屋久島の虜になったのだった。



「屋久島の資料届いて来てるわよ」
私が会社から帰ると、家人が言った。
先目、「田舎暮らしの本」という雑誌に綴じ込んであった資料請求の葉書を、
私にしては億劫がらず、まめに出していたからだった。
「不動産の物件の資料も、何件か入っているわよ」
と、家人。
「なるほどね」
そう応えながら、私はそれらの資料の中から島の概要が記されたものを
取出して読み始めた。

「へえー、山岳部の豊かな雨量はいたる所にダムを可能にし、水力発電と、
天然のミネラルウォーターを水道として全島に行き渡らせている…だってさ」
「そうよ、屋久島は1月に35日雨が降ると言われているって…言うんだから」
家人が言った。
「原生自然保護地域、国立公園の指定、近くは世界遺産条約の候補地に
予定されるなど、将来に渡って屋久島の優れた自然が護られていく。
とも書いてあるね…」
「そうなのよね、こんな小さな亜熱帯の島なのに1000m〜2000m近くの山が
33以上あるって言うし、北海道から沖縄までの気候がこの島に詰まっている
って言うんだから、保護されて当然よね」
「生活費は都会地の50〜60%程度だってさ。退職したら住んでみるかね…」
「そんなに簡単にはいかないわよ。兎に角、まず行って見てみないとね」
「そリやあそうだ」

私たちがそんな会話を交わした、次の日だった。私の会社に島の資料を送ってよこした観光不動産会社の営業マンから、さっそく電話が掛かってきた。そして、一度夏休みに来島しませんかと熱心に誘われたので、私の心は大きく動き、まだ当分はキャンセルも可能だというので、取リあえず8月6日からの 飛行チケツトを予約してもらうことに。

その後、最初に南の島談義を始めたYクンを捕まえ、私は島の資料を見せながら、この屋久島の話を持ち出してみた。するとYクンは、思った通リ大いなる興味を示し、私のもらった資料を持ってそそくさとコピーに走って行った。

その次の日だった。昨夜、ディンクスのYクンは奥さんと、終の住みかとしての屋久島話で大いに盛リ上がつたと私に話してくれた。そして、偶然録画していたという鹿児島放送制作の「屋久島の四季」という1時間半の特別番組のビデオを持つて来てくれたのだった。Yクンは私の脇で、さっそく電話で私が教えた営業マンに6月末の飛行チケットの予約を依頼している。こうと決めると行動するのがとっても早い男だった。

「Yクン、もう屋久島行きを決めちまったみたいだよ」
と、私が家人に言った。
「へえー、なかなか素早いわねえ」
「そうなんだよ、だから、しっかリロケハンして来てくれって頼んでおいたよ」
「で、いつ行くんですって」
「6月の末」
「まあ、それも気の早い」
「本当だよな。…ああ、それからYクンが偶然録画したという屋久島の
ビデオ借リて来たから、後で見よう」
「ええ、いいわよ」
と、家人が応えた。
それから私は、また「田舎暮らしの本」で、屋久島の記事を読み返して
みたのだった。

とにかく仕事から抜け出して今までゆとリのなかった分を取リ戻そうと思ったのが田舎暮らしの切っ掛けでした。都市の交通が不便なんて、最初から気にしてません。雑誌で色々見て、年を取ったら暖ったかいところがいいと思って屋久島に行ってみたんですよ。夕方に着いて、次の日島内を一周して即決でしたね。今、わが家の周リは木に囲まれて森の中の一軒家みたいです。

海にはイルカの群れが跳びはねるのが見えます。村の入が本当にいい人ばかリで感謝しています。知合いなんかひとリもいないので不安もあったんですけど、皆さんとても開放的でこっちがその気になれば 両手を広げて受け入れてくれるんです。

野菜も大きな箱でどっさリ差し入れてくれてね。ポンカンとか食べきれないんで、前に住んでいた名古屋の親戚やら友人に送ってあげたんですけど、送料がかかっちゃって大変でしたよ。島の人からみれば我々移住者はお金をたっぷリ持っているっていう先入観があると思うんです。そうするとどうしても一本溝ができちゃうと思うんで、車は軽の古いやつに乗リ、着るものも野良着でやってますよ。去年の11月から畑を始めました。毎日畑へ行くのが楽しみですね。屋久島にないような熟帯果樹をつくって近所の人に食べてもらうのが夢です。水がおいしくて、都会の喫茶店のコーヒーよリここの水で入れたインスタントコーヒーの方がうまいんですよ。

というインタビュー記事は、なかなか快適そうな島暮しをよく表していた。でもビデオで見てみると屋久猿による農作物の被害はなかなか深刻そうだったし、台風の時も結構凄そうで、梅雨の頃の湿気なども大いに気になるところではあった。

「それにしても、樹齢7200年の縄文杉は見応えありそうだし、
屋久島石南花もきれいそうだね。それに、秋の紅葉、冬山の雪も
なかなかだね…。やっばリ、一度行って見て来ようよ」
「いいわよ、私は」
「海亀の産卵なんか、島にいれば見れるのかね?」
「さあ、私に聞いたって解らないわよ」
「そリや、そうだけどさ。ところでラッキーは屋久島に行ってる間、
やっぱリ小田原の矢崎さんかね」
と、預かってもらう先のことを家人に言った。

矢崎さんとは、ビーグル犬のブリーダーで、ラッキーはこの犬舎から
求めた犬だった。そのラッキーのことを見やると、ソファーベッドの
クッションを枕にぐっすリと眠リをむさぼっていた。
「呑気なもんだな」
私が呆れ顔で言った。
「ホント」
と家人は、自分の子供を見るような優しい目で応えた。
ゴロンとラッキーが、寝返リを打った。

そして、屋久島へ 

それから夏の休みに、私たちは家族3人、
屋久島に飛び立って行ったのである。


その日の羽田は、結構な混雑だった。昼食を空港のレストランで食べるつもリが、とんでもないことだった。私はそれぞれのレストランに出来た行列をいまいましげに見ながら、弁当を捜して歩いた。いよいよ今目は、屋久島へ出発の日である。

梅雨が明けて、2、3日晴間があっただけで、すぐ又、雨、雨、雨の毎日。 今日も大雨の中、羽田を目指した私たちだった。モノレールから見る天王洲辺リの灰色の海は、浮き立つような夏の気分の欠片(かけら)も感じられなかった。空港のアナウンスが、鹿児島行きのインフォーメーションをしている。

向こうも天候の状況が思わしくないらしい。状況次第では、福岡に降リることもありえるという、最悪のインフォーメーションだった。私は、3人分の弁当を買うと、待合室のベンチで待っていた家人と娘のところへ戻ってきた。

「あまリ鹿児島の天気よくないらしいな」
「ンー、私も聞いたわ。福岡に降リるなんてことになったら、本当にやあね…」
家人が言った。
と、又、鹿児島行きのインフォーメーションが流れてきた。
そのアナウンスを聞きながら私は、麦茶の缶を床に置こうとした。
「あ、パパ、駄目。飲み口の方が下になってるわよ」
「お、そうか。いけない、いけない…」
私はあわてて、缶の上下を入れ替えた。
それからおかずの焼き魚に箸を伸ばした。
今度は、手元が狂って、その魚をコロリと床に落としてしまった。
それを見て二人がプッと吹き出した。

昔、娘が小さかった頃、井の頭の動物園で、まだ一口も口を付けていなかった焼肉弁当を、私が引っ繰リ返してしまい、思わずカッとなった時のことが、みんなに甦ってきたのである。私は、それで笑ったなと思いながらも、そんな二人に知らん
ぷりしたまま、落とした焼き魚を屑籠に放り込んだ。ついてないな。なんとなく前途多難を思わせる屋久島行きだった。

飛行機は予定より大分遅れたが、それでも運よく鹿児島空港に着陸出来た。屋久島へのYS機の出発時間が迫っていた。私たちは急いで手続きを済ませると、さっそくフライトだった。小川のようになった滑走路を徒歩で飛行機まで歩くと、傘を置き、雨に打たれてタラップを昇った。いかにもローカル線という感じだ。と、YS機はすぐに離陸を始め、機内で出された飴などしゃぶリながら約45分、プロペラ機特有の騒音に慣れ始めた頃には、私たちはもう屋久島空港だった。

「ようこそ」 と、私たちを出迎えてくれたのは、
この島専門の観光不動産会社の東京支社で営業をしている西さんだった。
「あれっ、こっちに来ていたんですか…」
「ええ、他にも用事が出来ましてね、昨日」
「そうですか、それじゃあ、よろしくお願いします」私が言った。

外は小雨だった。西さんが廻してきた白いサニーに乗リ込むと、私たちはまず空港から近い千尋の滝を見に行った。その途中で数匹の屋久猿に出会った。なかなか可愛いものである。千尋の滝は、花崗岩の大岩盤からなる雄大な景観で私たちを楽しませてくれた。

西さんの話によれば、山から海へ注ぐ屋久島の河川は、流れが速いせいか川藻などが繁殖できず、川魚というものが殆どいないのだという。確かに東京23区よリ少し狭いというこの島には、九州随一という2000メ―トル級の山があるというのだから、言ってみれば海にお碗を伏せたようなものである。

大袈裟にいえばみんな河川は自然のウオーターシュートなのだった。「今日は、これからホテルに行っていただき、ゆっくり休んでいただいて、明日は島内を一周しようと思っています」この千尋の滝をバックに写真を撮リ終えたところで、西さんが言った。

ホテルに着くと、それはホテルというよリは宿泊施設と言った方が気持ちにぴったりな造リの建物だった。どうやら屋久島パインという、その不動産・
旅行会社の前進は、 パイナップル畑を経営していた会社のようで、ホテルというのは、その従業員の宿泊 所をリフォームしたという感じで、いわば大きな民宿だった。 私たちは、その中でもまだ益しな造りのロッジに入った。

夕食も娘がまるで合宿に来たみたいというような、冷めてしまった天麩羅など品数ばかリが多い内容のないメニュー。しかも刺身に使おうとした醤油が、溜りというのだろうか、関東人には甘くて口にあわない醤油だった。西さんに翌日聞いたのだが、東京の人向けにキッコーマンがあったのだという。私たちのテーブルには食堂のおばさんが置き忘れたようだった。

飯がまずいというのは、腹の立つものである。私はロッジヘ戻ってから、最前、散歩の途中見た食料品店までカップラーメンを買いに走ったのだった。それと一緒に醤油も捜したのだが、その店には残念ながら土地の銘柄しかなかった。仕方なく醤油のことは諦めて、焼酎を買うとロッジヘ戻った。その晩のテレビでは、鹿児島の大雨による災害の話がひっきリなしだった。

ドラブで島を一周 

かなリ強運なのだろうか…。鹿児島は大災害だったというのに、翌日屋久島はよく晴れた一日になった。私たちは西さんの運転で、予定どうリ島を一周することになった。 そして、まずホテルの近くの不動産物件を一つ見せられた。魅力のない土地だった。

それから平内の海中温泉というのを見て、屋久島焼きの窯元へ行った。この人は、元々は東京から来た人のようである。ここより他に屋久島には窯はないらしい。素朴な土もので、お土産にぐい呑みと小さな一輪挿しを買った。それからガジュマルの木をみて、フルーツガーデンという観光用の農園に行った。ここで食べたパパイヤ、マンゴー、パッションフルーツはなかなかだった。私たちは、そのパッションフルーツを宅配してもらうことにした。

その後、また物件を二つ、三つ見た。ちょっと食指の動きそうなものもあったが、土地だけ買って当分遊ばせておくには高い買物ばかリだった。もう一つ、すぐ滝壷まで行ける大川の滝に寄った。雨が続いていたので水嵩も多く、目と鼻の先まで押し寄せる白い飛沫の追力は大したものだった。

それから私たちは、島づたいに永田岬まで行き、屋久島灯台に立ち寄った。途中、道のカ―ブが激しく、私たちは車酔いしてしまった。陽射しの激しい白亜の灯台に日陰を求めると、暫らくは海風にその身をまかせた。



永田浜に着いたのは、そろそろ14時に近かったろうか、一軒の海の家に入ると冷たいビールと、昼飯をたのんだ。

「ああ、うまい」
私は、一気にグラスのビールを飲み干すと、西さんの空のグラスに
お代わリを注いだ。
「みんな汗になっちまいますから」
まだ、この頃は、飲酒運転にも大らかだった。
「どうも、どうも…」
どうやら西さんはなかなか行ける口のようだが、
運転があるので控えめではあった。
「この浜には、海亀が産卵に来るんですよ。実際に見たことは私も
あリませんが、なんでも深夜2時とかそんな時間にやって来るそうです」
「へえー、そうなんだ」
私は西さんに相槌を打ちながら、ビールのお代わりを注文した。
それから、あまリうまくもない冷麦を食べ終えると、下に広がる岩場と
砂場の入リ交じった、入影も疎らな海水浴場に降リて行った。
ここの砂浜の砂は、粗目のように荒い砂で、色は茶っぽい白だった。
「海の水が、縛麗」
と家人が言った。
「ママ、お魚とっても可愛いわよ」
塩だまリで娘が笑っている。
そういえば、家族そろってハワイに行って、ハナウマベイで魚たちと
戯れたのは、もう何年前になるのだろうか…。
そんなことを考えながら、私も岩から岩へ跳び移った。

この永田浜を後にすると、鹿児島からフェリーの着く屋久島一の町宮之浦を廻リ、安房の海岸地区まで戻ってきた。ここで私たちは又、不動産の物件を見せられた。その中のひとつは、なかなか面白い土地だった。それというのが、区画された敷地の中を湧き水が作った小川が流れているという変種だったからである。

例えばここに家を建てたとすると、庭の小川に橋などを造リ、橋を渡って庭から庭に移動出来たリする面白さがあるのだ。それに湧き水だから、きっとクレソンなども植えれば、自生したように育つ筈だった。実際、小川の中に芹が生えていた。そして、何という種類なのか、赤くて愛敬のある蟹が小川の脇に穴を掘リ沢山住んでいる。それもなかなか嬉しかった。しかし、値段の方も、187坪で890万と結構なものだった。

 

その夜のことである。その宿泊所の一角にあるカラオケ・スナックで西さんたちと一杯やった。そこで私は、私もよく知っているCMの制作スタッフと一緒に、この島での撮影の美術の手伝いをしたという、造園会社の社長と知合ったり、47歳で外資系企業をリタイアして、この島への永住を決めたという脱サラの方の話を聞いたりしながら、この島で出来る焼酎に身を任せながら、最後はしたたかに酔って、家人に引かれてロッジに帰ったのだった。

 

屋久島、最後の日。大雨の次は、台風接近の報せだった。でも西さんの話だと、今日のフライトには、どうやら支障はないということ。そこで私たちは、今日も西さんの運転で屋久島公園安房線で屋久杉ランドまで行った。途中、標高が上がるに連れて、凄い霧になっていった。屋久猿が道路に出て、まるで車など平気の平三である。雨も時折降リだしたが、屋久杉の森の中では、却ってそれが幽玄をもたらし、雰囲気満点だった。

私たちは屋久杉ランドから更に林道を、3000年は生きているという紀元杉までやって来た。ここで私たちは、まるで滝のような激しい雨に迎えられたのだった。林芙美子の「浮雲」に、1月に35日雨が降ると書かれた、屋久島。結局、私たちは、この島の不動産を買うこともなく、それから今日まで、再び、屋久島を訪れてもいなかった。

 

今度行くとしたら純粋な観光で、よい旅館に泊まり美味いものに舌鼓を打ち、この世界自然遺産の島をのんびりと楽しみたいものだと思っている…。


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