ハマダ伝・改作版

作:濱田 哲二


『ハマダ伝・改作版』 その19 目次  

それからの日々  
長鳴監督とお寿司

本当に暑い夏

それからの日々 

早いもので暦は、1994年(平成6年)の5月5日になっていた。仕事の方でなにかと多忙だった毎日にも、ようやく一区切リがついて、私は久々にのんびりとしたゴールデン・ウイークを過ごしていた。

連休の始まる前日の4月28日、ここ2週間程根を詰めていた競合プレゼンも無事終わり、その夜は、同じチームで仕事をしていた仲間の大阪転勤の壮行会に出席をした。この同じ日、数年前に亡くなった私の大学の後輩、分ちゃんの奥さん、歌手、槙みちるさんのコンサートがあったのだが、そっちは家人に行ってもらっていた。仕事に一区切リがついた安堵感からか、その壮行会からかなりの泥酔状態でわが家に帰還したのが午前2時頃だったという。

そして、次の日は、ご多分に漏れず、半日の二日酔い。夜になってちょっと回復したところで、4階の戸沢さんからの軽一(軽く一杯)のお誘い。その軽一は、私のお節介で進めていたIクンと、同じ会社の先輩であるAさん宅のコーポラティブハウス計画の途中経過の報告会をしたいということでもあった。

このコーポラティブハウスとは、入居希望者が組合を結成し、その組合が事業主となって、土地取得から設計者や建設業者の手配まで、建設行為の全てを行う集合住宅のこと。コーポラティブ住宅、コープ住宅とも呼ばれるという。英語ではBuilding co-operativesと言うのだそうだ。

翌日は、小田原の畑に出掛ける予定だったので、アルコールの方は少し控えめにし、予定通リ小田原には、家人と娘と3人で出掛けて行った。

5月1日は、兼ねてから引っ掛かっていた家人の筋腫の手術の相談を、医師である大宮の長兄のところへ話しに出掛けた。娘が夏休みに入ったら、さっそく手術をしたいと家人は思っているようだった。が、そんな大切な相談もそっちのけで、 まずは、酒盛りということに…。

2日の日は、昼から会社に出た。そして、頼まれていた大学の広告研究会の総会での講演の打ち合せをした。その夜は、Aさんを呼んで、コーポラティブ計画の打ち合せ。
またまた酒盛りになってしまった。

そして、3日の午後、その計画の一員、Iクン夫婦を呼んで、彼らに初めて具体的な内容の提示を戸沢さんのオフィスで行なった。なんとなくうまくいきそうな手応え、お節介の甲斐があったようである。

ところで、コーポラティブハウスの話をIクンたちに持ち出したのは、今年の正月の3日のことだった。年始にやってきた彼らと一杯やっていた時、マンションを探しているん
だがなかなか満足の出来る物件がないというような話から、それは、はじまったのだった。

その時、私の脳裏に閃いたのは、偶然、小田原の畑の帰リに蜜柑と大根を届けに寄ったAさんから、酒飲み話に「この土地に住居を建て替えるいい方法はないものかと考えているんだけど」といった話しを聞き、それなら私のマンションのオーナーで建築家の戸沢さんに色々と相談するといいですよ、などと話したことがあったことを思い出したのである。

それをIクンたちに語リ、Aさんの土地に共同住宅を建てる計画はどうだろうかと話してみると、すっかり彼らもその気になってしまったのである。そこで、4階の戸沢さんにも酒盛リに加わってもらい意見をあれこれ交換しているうちに、コーポラティブハウス計画はどんどん盛リ上がりを示し、ついには私が、そのプロデューサーとして、Aさんに相談を持ち掛けるということになってしま たのだった。

が、結局、この話しは、色々と面倒なハードルがあり、実現することはなかったのだが、これもなかなか楽しい経験であり、思い出となっていた。

そんな正月を迎えた前年、私たち夫婦は、3組目の仲人をやった。その会社の後輩・瀬川クンと家人の長兄の娘・智子ちゃん夫婦に、さっそく子供が授かリ、その秋には無事第一子が誕生した。

そんなお目出度い話とは裏腹に、私の最初に務めたプロダクションの仲問、岩ちゃんの訃報を聞いたのもその頃だった。酒好きの例に違わず、死因は肝硬変。独り住まいだったので他界してから2週間程発見されずにいたという、ちょっと可哀相な最期だった。私も葬儀に参列したのだが、集まった人は少なかった。そんな淋しい葬儀の読経の中で、長髪で徴笑む若かりし頃の岩ちゃんの遺影が、とてもやるせなく哀しかった。

そして、伊豆でやった日芸落研の後輩、志ん朝師匠の弟子「古今亭右朝VS立川藤志楼(高田文夫)」の落語会がなんだかお騒がせのうちに終わると、11月には、ビールのロケで森高千里さんとオーストラリアに行ったりもした。

 

年が明けると、久々の落語研究会のOB会もあった。更に、日芸落研の3年先輩で広告業界の先輩でもある、坂田さん、蔵田さん、櫻田さんの3人でやった素人落語会(私も前座で出演)第4回「さん田の会」も好評のうちに終わると、この春には、会社で、
理事という名誉なタイトルなどもいただいた。

又、娘が高校を卒業して推薦で玉川大学の英米文学科に入学したのもこの春。世の中、不況の時代に入っていたが、まずはこれ 、私にとっては上々の日々といったところだった…。

「あ、そうだ、一昨日、ユウジから電話があったんだ」
とお茶を飲みながら家人が言った。
「ほら、ちようどあなたたちがAさんの土地を見に行ってる時に…」
「それで、なんだって…」
「近々大学のクラス会をやろうって話になったとかで、確か、メモして
あるけど6月18日とか言っていたわね」
「6月18日…。ちょっとカレンダー取ってくれるかな。
そうか、土曜日ね。たぶん行けそうだな」
私は独リ言のように言った。

家族三人は、お茶をしながら、それぞれ残リもののお菓子を食べていた。
家人は朝焼いたパンケー-キの残リ。娘はIクンたちが持ってきてくれた
パイ皮のイチゴケーキ。そして、私は戸沢さんから貰った柏餅を。
それは、いつもと変わらない日常だった。

「今日は、何時頃出掛けるの」
と娘が言った。
その夜は紀国屋ホールで「藤志楼」の非合法落語会があって、
彼から2枚招待券を貰っていた。
「ん、五時過ぎかな…」
「カレーを作ってあるから、それを食べていて」
と家人が娘に言った。
「わかった」
「私たちは、どうする?」
「帰ってきてから、カレーかな」
「そうね」
時計を見ると、4時半を少し廻ったところだった。
「そろそろ支度するかな」
と言って私はテーブルを離れた。
紀伊国屋ホールに行ってみると、「さん田の会」でお馴染みの大学の先輩、
蔵田さんと、櫻田さんにお会いした。
この日「藤志楼」の演題は「紺屋高尾」。ネタ下ろしの(人様の前で初めて
演ずる)大ネタだったが、笑いあり涙ありの素晴らしい出来だった。
この非合法落語会、その時は、ちょうど10年目に当たる記念的な日だったのである…。

長鳴監督とお寿司 

そして、その年の夏のことである。『都内で日中の最高気温が、摂氏39度を超える』というような活字が新聞の一面を飾る、連日の猛暑だった。その夜、私は家に帰るなり上機嫌で言った。

「実はさ、今夜、長鳴監督と一緒に寿司を食ったんだ」
「へえ…、凄いじやない。どうして、そんなことになったの?」と家人。
「正にラッキーってやつなんだけど…。
今日、Pプロダクションのプロデューサーから電話があって、
巨入VS.広島戦を東京ドームのロイヤル・ボックスと同じクラス
の席で観戦出来るチケットが手に入ったんだけど一緒に行きませんか
という、お誘いがあったんだ。でね、ちょっと仕事はあったんだけど、
そっちは若いのに任せちゃって、野球を観に行ってたというわけさ」
「そう言えば、10時頃になるっていう夕方の電話、なんか様子が
おかしいなとは思ったんだ」
「えへへへ…」
「でも、ゲームの方はジャイアンツのじやん負けだったじゃない」
「そう、この頃、球場に行くといつも負けゲームなんだよな。
ほら、こないだお前と行った時も阪神にシャットアウトだったしね。
だけど・ホント、いい席だったんだぜ。所謂、相撲でいえば桟敷席
だよね。10人位が利用できる応接ルームとボックスシートがあって、
結構なお弁当が出てビールは飲み放題だしね。もちろんビールが
空になると係の女の子がいてサーブしてくれるんだ。
なんでも年間2千万位の契約料がかかるっていってたっけな。
今日の集まりは長鳴監督の色々ある後援会の中のひとつの
メ ンバーたち だったらしいんだけど、西麻布にある割烹料理屋の
杜長の関係で、こんな賛沢な野球観戦のご相伴に預かれたって
わけらしいんだ…」
私は、そんなことを一気に家人に語って聞かせた。

「それで、野球が終わって軽くもう一杯ということになって、寿司屋に
行ったんだ。 そしたらその寿司屋は普段から長鳴さんもよく利用する
処らしくて、さっきまでドームで観戦していた後援会のメンバーの方たち
と一緒に、試合を終えた監督が 早々と球場からやってきて、もう歓談
していたっていうわけなんだ。
監督は例のあの明るい調子で、やあ、せっかく観に来ていただいたのに
ワンサイドで負けちゃって申し訳ございませんでした。なんて、全然、
落ち込んでる様子もなく言ってるんだな、これが。
そして、こんなことも言っていた。
年間ひとつのチームが100勝するなんてことはあリえない、
75勝ラインで優勝なんだから、負けることをいちいち気にしていたら
身が持ちません、だってさ。
そリやあそうかも知れないよな。でも、長鳴さんてサービス精神が
ホント旺盛なんだよね、今日の試合の分析を次から次へと我々に
楽しく話してくれるんだ。
やっぱリ今日のポイントは松井の走塁ミスだったなんてね。
エンドランのサインを出していたらしいんだけど、走るのは、ピッチヤー
の手から球が離れてからっていうのは、常識。それなのに松井は
スルスルって塁を離れちやつたわけだろ、完全に松井のボンヘッド
だったって言うんだ。
でも、今日は叱リませんでしたとも言ってたよ。本人も自分のミスを
痛いほどわかっいるんだからってね。明日の名古屋で説教します、
だって。本当に気さくでいい人だった。やっぱりあの人のあの性格
っていいよね、ファンが多いはずだよ」

私は缶ビールを抜きながら、ますます上機嫌になっていた。ここのところ会社で、あまリ面白くないことが多かったので、この夜の長鳴事件は、私の気持ちをすっかリ有頂天にさせていたのだろう。

 

 (写真は、この頃、サイパンロケのプールサイドで撮ったもの)

本当に暑い夏 

同じ頃、かつて消費経済の牽引者であった団塊の世代はどうしたのであろうか。そんな文章ではじまる、矢田晶紀という人の書いた新しい消費者ターゲット「知子(ともこ)さんを狙え」 という本を、私は仕事柄もあって、とても興味深く読んでいた。

その本には、最近の私たちの世代は、子供たちの教育費がいちばん増大する時期で、住宅費のローンなどの大きな出費を抱えていて、人生の苦しさを体験している真っ最中とあった。団塊の世代は、会社の中でも中途半端な立場にさしかかっていて、かつてニューファミリーともてはやされ、自由と豊かなライフスタイルをつくリだす原動力となった自信に満ちた面影は最早なく、新しい消費行動を起こすパワーも、 新しい価値観を創る感性もなくしているというのである。

確かにその通り、私たちはすっかり元気をなくしていた。所謂、人生の折り返し点前で、不況に出会い、これからの大変さを噛みしめている今日この頃の私たちだったのである。

そんな折リも折リ、家人が兼ねてから予定していた筋腫の手術で、日本医大の付属病院に2週間の入院をした。無事手術は成功し、その後の経過も順調で、予定よリ1日早く退院。でも、腹部を10cm以上切り開いたのだからしてまだ普段の生活にはとても戻れず、 術後のリハビリに励みながら、体力の回復を待つ毎日だった。

このように、少しづつ、少しづつ、陰りを感じ始めていた私の中に、「チャレンジ・ネックスト」というキーワードが頭をもたげはじめていた。しかし、それは何なのか、何をやればいいのか、という答えは、まだ、まるで霧の彼方だった

そんな時、家人が病み上がリなら、愛犬のラッキーにもちょっとした異変が起きた。掛リ付けの獣医さんに診てもらったところ、どうやらラッキーは、通風状態に陥ってしまっていたらしいのである。体を動かすと神経に痛みが走るらしく、大きな声で異様な吠え方をした。2日ほどはとても不欄な感じだったが、痛み止めの注射と薬が効いたのか、
しばらくすると落ち着きを取リ戻した。それにしても通風などと、まったくなんという犬なのだろう…。

「こう暑い日がつづくと犬の血が濃くなるんですって。
水をたくさん飲まないと通風状態になってしまうんですってよ」
まだほっそりとして、フワフワした感じの家人が言った。
家人が元の元気に戻るまではまだ1月ほどはかかリそうである。

その年の夏は、本当に暑い夏だった。千駄木にある日本医大の付属病院に通う道筋には、根津権現があリ、私は油蝉が鳴き頻るその境内を越えて、殆ど毎日面会に行っていた。くる日もくる日も、下町の風情もなにもかもが、ジリジリと焼け焦げてしまいそうな暑さだった。

考えてみれば家人の入院は、出産を除けば、結婚してすぐの盲腸炎の手術をして以来のこと。 その後は、今日に至るまで、殆ど病知らずで過ごして来ている。私も、二日酔い以外は、これといった大病もなく、とても幸せなことだと思っていた。

でも、「やはり兎に角、次のことを」だった。いつの間にか心に忍び寄る、今までにはなかった正体のない不安。私はそれと闘いながら、どうにも鬱陶しい日々を過ごし始めていた。46歳の時だった。


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