海濱館

作:濱田 哲二


          一、

         その小屋に対する世問の風当りが強くなり始めたのは、
         ストリップの興業を始めた頃からだった。
         その名は、『海濱館』。昭和33年(1958年)、東京から数時問の距離に
         ある小さな城下町のはずれに、明治の臭いを漂わせ、大仰に構えている
         この小屋は、庶民が求め出したあちら風のモダンな建物とはおよそ縁遠い
         姿体を、今日も風雨に晒していた。

         これも時流と言うものであろうか、浪花節や講釈、どさ廻りの芝居など、
         最早庶民の関心は皆無だった。
         茶の間に備えつけられたテレビという文明の利器はすっか人々を魅了し、
         猫も杓子もテレビ、テレビで、次の日の話題は力道山の空手チョップであり、
         白馬に跨る正義のカウボーイの活躍であった。
         同じ傾、娯楽の王様、映画産業も斜陽の第一歩をたどり始めた。
         しかし、邦画界はまだまだ強気だった。銀慕に、のっぺりした二枚目を
         登場させ、バツタバッタと悪入を斬り倒しさえすれば、盆と正月の興業は
         大成功と高をくくっていた。

         が、人々にとってテレビは、あまりにも新鮮で魅力的だった。
         たちまちこの小都市の空には、アンテナという、奇妙な代物が林立し始めた。
         これを契機に、映画産業は急転直下、秋の陽のごとしであった…。
         こういう世相を背景に、一昔前までは、芸人が上方から江戸へ来る際、
         一つの試金石とされていたこの小屋も堕ちるところまで堕ちていった。
         しかし、腐っても鯛。その道では関八州に知れ渡ったこの小屋の看板を
         盾に取って、いろいろな興業がくり返された。が、そのすべてはことごとく
         失敗に終わったのだった。
         そして、とうとう最後の手段。人問のスケベエ根性が狙いの裸踊りの興業と
         相成ったわけである。

         今日も―。
         三色刷りの怪しげなポスターが通り過ぎる人々の目を引いた。
         「悩殺!ピンク・ピンクショー 関西ヌード総出演」
         赤線が廃止されてからこの方、モヤモヤしたものをどう処理していいか
         見当が付かなかった男共は、辺りを気にしながらも、セッセとこの小屋へ
         通って行ったのである。
         と、ここに決然と立ち上った人々がいた。
         それは言うまでもなく、良識の府を自称する主婦連のママさん連中であった。
         「戦国時代に遡って数百年、質実剛健の気風を生き抜いて来たこの由緒ある
         城下町から、あんな下賎なものは締め出せ!」
         眼鏡の奥にしょぼつかせた眼(まなこ)に吝気の炎を燃やして、
         ストリップ興業反対の法螺貝を高らかに鳴らすのだった。

          二、 

  
         「チェッ、なんだい」
         六十も半ばを越しているだろう風体の老女が、
         屋台で焼酎をあおりながらつぶやいた。
         海濱館わきの路地には、今晩も徳さんの屋台が出ていた。
         カーバイトの炎に老女の顔が揺れる。
         徳さんは、おでんをかきまぜる手を止めると人の良さそうな声で尋ねた。
         「どうしたんだい、ばあさん?」
         「面白くないのサ」
         「何が?」
         「世間てえ奴は寄ってたかって弱い者いじめをしやがる」
         老女は、深い皺に憤りをむき出して言った。
         「弱い者いじめね…」
         「そうさ、ストリップが廃止になっちまったら、あたしゃおまんまの食い
         上げになっちまうよ。エー、そうだろ、こんなババア、もう他じゃ
         使っちゃくれねえよ」
         この老女は、小屋のもぎりだった。つい先日も、ストリップ反対のビラを
         はがして廻り、パトロール中の巡査に捕まったばかりだった。
         徳さんはこの老女の気持がわかるような気がした。
         棚からいこいを取ると、徳さんは老女に一本すすめた。
         「ばあさん、吸うかい?」
         「ありがとよ」
         老女は小刻みに震える手で、不器用に煙草を一本抜き取ると、
         カーバイトの炎に煙草を近づけた。
         「アヽ、ばあさん待ちなよ」
         徳さんは前掛けのポケットからライターを出すと、勢いよく擦った。
         ボッと燃えるる青い火に徳さんは満足気である。
         「洒落たもの持ってんだね」
         「ナーニ、縁日の射的で取ったんだよ」
         「フーン、ガスライターって奴かい?」
         「オイルだよ」
         しかし、徳さんは大切そうにそれをポケットにしまう。
         老女は煙草をうまそうに吹かし、フト、感慨深げに、
         「昔は良かったねェ」
         「エツ?」
         「海濱館さ」
         「アヽ」
         「良く通ったもんだよ。中の休憩時間になると、売り子さんが、
         え〜、おせんにキャラメル、アンパンにラムネって言ってねェ…。
         浪花節を聞いちゃあ泣き、講釈聞いちゃあ泣き…
         なんつったっけね、アヽそうだ…妻は夫をいたわりつ
         夫は妻にしたいつつぅ〜」
         徳さんもつられて、「頃は六月中の頃 夏とはいえど片田舎
         木立の森のぉ〜」
         甦って来た昔の記憶に満足気である。
         「いいね」老女はもう一度言った。
         そして、残っていた焼酎をグッとあおった。
         「ばあさん、もう一杯いくかい?」
         「いやぁ、もういいよ」
         と、いいながらも、コップの底を名残惜しそうに眺める。
         徳さんは、焼酌の栓を抜くと、老女のコップに注いでやる。
         「もういいってのに」
         老女ば多少迷惑そうな顔で徳さんを見た。
         と、徳さんはニッコリ笑うと、
         「心配すんなよ、俺のおごりだよ」
         「そうかい済まないね」
         老女はとてもうれしそうにすると、コップを口に運んだ。
         そして、ゴロゴロ喉を鳴らすような唄い方で、船頭小唄を唄い出した。
         「死ぬも、生きるも、ねえお前、水の流れに何変わろ〜」、
         徳さんも低いぶっきらぼうな声で老女の唄につづく。
         夜の風が少し冷たさを増して来たようである。
         カーバイトの炎が左右に揺れている。
         二人は唄い終わると、しんみりとして、しばらく無言のまヽでいた。
         老女は、手さげをゴソゴソまさぐって、中から古い財布を出すと、
         勘定を払って立ち上がった。
         と、老女は、足場を失ってよろけた。
         「オット、大丈夫かい」
         心配そうに徳さんが身を乗り出した。その徳さんに老女は、
         「アァ、ごっそうさん」
         「気をつけて帰んなよ」
         老女は頷くと、フラフラ歩き出した。
         連れ込み宿の青いネオンが妙に艶かしく灯っている。
         こんな日は、何かその昔の情緒が感じられてならない。
         横丁では酔っ払いがトタン塀に向かって立小便をしていた。
         どこかの小料理屋の宴から聞えてくる唄声が風にのって、
         老女の耳元を幽かに過ぎっていった。

                        
          三、

         「ただいま」
         低い声が、小さなうちの中に響き渡った。
         「おかえり」
         十八、九の娘が服飾雑誌からちらっと顔をあげて応えた。
         「また飲んで来たのね」
         「アヽ、あたしのたった一つの楽しみでね」
         「…………」
         千絵子は又、服飾雑誌に目を落とす。美しいカラーのグラビアには、
         着飾ったモデルのさまざまなポーズが載っている。
         老女は台所へ行くと、水道のコックを威勢よくひねった。
         そして、そこへ直接口を運び、ゴクリゴクリと喉を鳴らしてうまそうに飲んだ。
         乱暴に手のひらで口を拭うと、水道を止めた。
         「まだ寝ないのかい?」
         千絵子は喋るのがさも億劫そうな表情をするとグラビアのページをめくった。
         「どうすんだい」
         老女の声がもう一度響いた。
         千絵子は重たい口を開くと、「先に寝てなよ」と言った。
         老女は、さっさと蒲団を敷くと、「じゃ、おやすみ」と言って静かになった。
         しばらくすると、酒の酔いが廻っているせいか、すぐ老女のいびきが
         千絵子の耳に聞えて来た。
         老女は、千絵子と二人暮しだった。
         千絵子はこの町の美容院に通っている。
         二人はお互いにそれほど意志の疎通を欲しなかった。
         というのが、千絵子は、老女が妾だった旦那の本妻の子で血の繋がりは
         なかった。では、別に親子でもないこの二人が何故一緒に生活するように
         なったのか、それは、こんな経緯からだった。

         昔、老女は、とある旦那に小さな飲屋を任されていた。
         が、その旦那が突然病死したためその店は彼女の手から離れることとなり
         途方に暮れていた。そんな時、旦那の本妻は老女に親切だった。
         老女の後の身の振り方やらなんやらを心配してくれ、その上、幾ばくかの
         金まで与えてくれたのである。
         が、病弱だった本妻は、一年ほどすると旦那の後を追うように逝ってしまい、
         四十近くになって授かったという幼い千絵子一人が後に残ったのだった。
         こうなると親戚筋は千絵子に冷たかった。
         そこで、本妻に恩義を感じていた老女は、千絵子を引き取って育てることに
         した。その際親戚筋から養育費として幾ばくか貰っていたことは確かである。
         千絵子は、老女の事を小母ちゃんと呼んだ。そして、中学を出ると、
         職業訓練所に入り、手に職をつけたのである。

         千絵子の枕元の目ざまし時計がけたたましく鳴り出した。
         時計は八時を指している。千絵子は眠そうな目をこすりながら起き上がった。
         隣りでは、老女がまだ死んだように眠っている。この位の年齢の人問は目敏
         いはずなのに老女はそうでなかった。
         「小母ちゃん、起きて、八時よ」
         老女はその声に眠りから醒めた。
         千絵子は蒲団を上げると、台所で顔を洗った。冷たい水が寝ぼけた膚に
         心地よい。しばらくして、老女も台所に現れた。
         二人とも朝はのんびりだった。
         美容室の方は十時、小屋の方は十一時までに行けばよかった。
         粗末な朝食を終えると、先に千絵子が出掛けて行った。
         老女が出掛ける頃は、街はもう活気に溢れている。
         小屋に着いて、老女がまずやるのは掃除だった。
         客席を掃いて、便所を掃除する。それが終ると、今度は楽屋の掃除だった。
         十二時半頃になると、ストリッパー達が楽屋にやって来る。
         どぎつい化粧をした彼女たちは、昼の光の中ではみんな白ブタのように
         見えた。老女は開演が近づくと、モギリの仕事をする。これから終演までは
         入口でただ坐っているだけの退屈な時問が始まるのである。

         今日も、夜の部が跳ねると、老女は徳さんの屋台へ足を向けた。
         晩秋とはいえ、とても底冷えのする晩である。
         遠くで尾を引くような犬の鳴き声がする。
         「ばあちゃん」
         その声は老女の後ろから聞こえた。
         「エッ?」
         振り返ってみると、若い男のあどけない顔がそこにあった。
         「さぶちゃん」
         「アヽ、やっぱりばあちゃん」
         「いつ帰って来たんだい」
         「うん、たった今さ」
         黒いスーツに赤いネクタイ、エナメルの先端の尖った靴、
         どれを取ってもこの男には不似合いだった。
         「ここで立ち話もなんだから、こんな事やりながら…」
         三郎は、手で飲む仕草をした。
         「いいねえ」
         老女はすぐ賛成した。
         三郎は、老女を近くの赤ちょうちんに案内すると、
         「お酒ニ本、一級をね」
         と、大きな声で言った。
         「いいのかい、一級なんかたのんじまって」
         「銭の心配などいいから、どんどん飲んでくれよ」
         老女は上機嫌で、
         「なんだか気味が悪いね、さぶちゃんに奢ってもらうなんて」
         「そんなことはねえよ」
         三郎は赤いネクタイをスーっと撫でた。
         半年ほど前から家を飛び出して、東京でバーテンの見習いのような
         ことをやっていたらしいのだが、一つ一つの仕草が都会のスマートさ     
         とは無縁な感じで、珍形な感じさえ与える。
         燗のついた徳利が、二人の前に並んだ。
         「さ、いこうじゃねえか」
         三郎は老女の盃に酒を注いだ。老女はうまそうに数杯盃を重ねた。
         三郎は満足そうに老女の飲みっぷりを眺めている。
         「小屋は、流行ってるかい?」
         三郎は、老女に世問話をもちかけた。
         「駄目だねえ」
         「海濱館も零落(おちぶ)れたもんだなぁ。俺達がガキの頃ぁ、
         まだまだ流行ってたんだがなぁ」
         「そうだよ、一流館だったさ。ねェ、浪花節に、講釈。
         文楽なんかだってやったもんだよ」
         「それが今じゃストリップか…」
         「本当に情けないよ」
         「そのストリップ興業も危ねえってえじゃねえか、
         何でも反対運動が起こってるとかなんとか…」
         老女は、酔っ払った顔を怒りで一層赤くすると、
         「そうなんだよ、馬鹿にしやがって…:。あたしゃね、世問の奴等が
         憎くてしょうがないんだよ、ストリッブが何故いけないんだい!
         エー、誰だって好きで裸になる女がいるかい。みんな生活のためだよ。
         それをさ、まるでストリッブだけが悪いようなこと、言いやがって!」
         老女は涙声になると、
         「今の海濱館はもう他の興業じゃあきっと潰れちまうよ。
         そしたら、あたしゃ、どうやっておまんま食ってきゃいいんだい。
         あそこのモギリが出来なくなっちまったら、
         もうどこにも働き場所なんてないんだよ」
         「本当だ」
         三郎が相槌を打つと、老女は多少絡むような口調で、
         「わかってくれるかい、さぶちゃん」
         「わかる、わかる」
         「本当にわかってくれるんだね、ありがとう」
         「さ、どんどん飲めよ、いやな浮世のことなど忘れちまいなよ」
         「アヽ」
         老女はおとなしくなると、酒を飲んだ。
         それからしばらくして、二人が赤ちょうちんを出た頃は、
         もうすつかり夜も更けていた。
         三郎は人通りのなくなった深夜の街を、老女を背負って歩き出した。
         「な、ばあちゃん、今晩泊めてくれよ、俺、うちには帰れねえんだ」
         「アヽ、いいともさ」
         それっきり二人の会話は途切れた。
         老女は三郎の背中でスースー寝息を立てている。
         ちようど、午前一時を少し廻った頃だつた。

          四、

         「さぶちゃん、大丈夫?」
         「アヽ、これなら殴っても蹴っても起きやしねえよ」
         三郎と千絵子は声を殺して話した。
         「はいってもいいかい?」
         「うん…」
         三郎はスーッと千絵子の蒲団の中に潜り込んだ。
         「アー、千絵ちゃんてあったけえんだなァ」
         「馬鹿ね、フフフ…」
         「俺、淋しかったよ、文通だけじゃたよりねえもんナ」
         あたしだって…」
         「でもなんか悪いナ、俺、ばあちゃんから千絵ちゃんかっぱらって
         くみたいで…」
         「何言ってんのよ、一緒に東京で暮したいって言ったのあんたじゃないの」
         「アハハハ…そうだったナ」
         「ね、さぶちゃん」
         「エツ?」
         「いいのよ…」
         三郎はドキンとした。そして、「う、うん…俺、東京で…」
         千絵子は、呆れたという表情をすると、「あんたまだ童貞なの…」
         「う、うん…」
         「なにさ、かっこばっかイイかっこして、だらしないったらありゃしない。
         ほら、小さい頃やったでしょ、お医者さんごっこ、あれよ」
         「わかってるよ!だけど俺…」
         「ウン!」
         千絵子は強引に三郎の手をひっぱると、自分の乳房の上に乗せた。
         隣には死んだように眠っている老女がいる。
         二人の奇妙なお祭はそれからしばらく続いた。
         「じゃ俺、東京で待ってるからな」
         「エヽ、きっといくワ」
         千絵子は幸せそうに目を閉じたまヽ答えた。三郎は、ソーツと蒲団を
         抜け出すと、闇の中でしばらくゴソゴソ身仕度をしていたが、やがて、
         夜のしらじら明けに姿を消した。
         それから千絵子は二、三時問ウトウトッとした。
         枕元で、八時を告げる目ざまし時計がけたたましく鳴り出した。
         千絵子と老女にいつもと同じような朝がやって来た。
         「おやっ、さぶちゃんは?」
         「うん、朝早く用があるからって帰っていったワ」
         「そうかい、すっかりごっそうになっちゃって悪いことしたよ」
         「そんなこといいのよ…」
         「エツ?」
         老女は千絵子の顔を見た。千絵子は快活に笑うと台所へ立っていった。

          五、

         この小さな城下町に初雪が降った。
         街は薄い雪化粧をして、箱庭を見るようだった。
         その頃、千絵子は老女の家から姿を消した。
         勤めていた美容院へも姿を現わさなかった。
         老女には、千絵子がいなくなった理由が、皆目見当がつかない。
         老女は本当に一人になった。
         そして、孤独の淋しさが身にしみるにつけ酒を飲んだ。
         海浜館の入口には、グッとふけこんだ老女が空ろな眼差しでモギリを
         やっている。世問では、ストリップの反対運動がますます激しくなり
         始めていた。こうなると客足もグッと減り、警察の目も厳しくなり、
         小屋の経営は苦しくなる一方だった。
         「ばあさん」
         「は、はい」
         客に呼ばれて老女は、ハッと我に返った。
         この頃は、柄になくよく考えごとをするのだった。
         老女は切符をちぎると半券を渡す。それを受け取ると客は館の中へ
         入っていった。老女は再び考えの中に沈んでいく。
         この頃、自分に不幸が来る時、決ず酒が災いしているように思えてならない。
         一体いつから酒ばかり喰らうようになったのだろうか、
         老女は色あせた記憶の中を妨程した。
         つい先日だったような気もするし、ずっと昔だったような気もする。
         とにかく気がついた時には、アルコールに首までつかっていたのだ…。
         老女の中に姿を消した千絵子の面影が現われた。
         どこに行ってしまったのだろう。老女は千絵子に無性に逢いたかった。
         ただ一つ屋根の下で生活したというだけの間柄ではあったが、
         長い歳月は老女に母性的な愛情を知らず知らずのうちに芽萌えさせて
         いたのだ。しかし、現実に老女は、あまりにも貧し過ぎた。
         千絵子に季節の服を買ってやるにも、老女の懐具合では一カ月を断食
         しても満足なものは与えられなかったであろう。  
         が、それにも増して老女の酒は彼女を蝕んでいた。
         彼女の中に沸き起こるどんな感情も、アルコールの臭いの前では
         ひとたまりもなかった。
         小屋がはねると、自然に足は屋台に向かっていくのだった。

         ストリッブ興業反対の世論は重すます激化していった。
         土地の有力者であり、町会議長である加藤虎之介という男が
         反対派の旗頭にたった。
         この加藤虎之介という男は、いわば町のボス的存在だった。
         数人の愚連隊風の男共を飼って、人々を威嚇していた。
         今も昔も、世問というものは既して、実力のある存在には従順である。
         泣く子と地頭には勝てぬ、よく言ったものである。
         最早海濱館は風前のともし火だった。
         庶民の反対。それに実力者が肩入れする。これではもうどうすることも
         出来ないというものだ…。
         しかし、この加藤虎之介という男が乗り出したのは、一体何故なのだろう?
         世問の人気取りとしては雑魚が考えそうなアイディアでしかない。
         現実の彼はもっと悪党だった。
         やはりそこには、一つのプランがあったのだ。
         彼は海濱館の買収を思い立っていた。それも散々ケチをつけて
         二足一二文で買い取ろうという…。そして、彼はここに一大娯楽センター
         設立の青与真を思い描いていたのだ。
         それには、海濱館は理想的な立地条件の所に位置していた。
         マンモスキャバレー、トルコ風呂、パチンコ屋などを一党に集めた
         総合娯楽センター、こうなると風紀は今より乱れるのは必定であった。
         しかし、目先の小事にガタガタしている庶民にはそこまで思考を巡らす
         ことは出きなかった。

         灰色のはれぼったい空からまた雨が落ち始めた。
         こんな日はどんな健康な人間でもイライラしてくる。老女も多分にもれ
         なかった。独楽鼠のように毎日せっせと与えられただけの仕事は消化
         していたが、何かこう拭い去れないものが胸のうちで燻っていた。
         風の便りでは、もうこの小屋も長いことはないという。
         残された余生をどう生活していくか、今の老女にはその術さえも
         みつかりそうもなかった。
         老女は酒を飲んで忘れようとした。酒によって自分を慰め、
         酒によって生きようと努めた。
         屋台では、今日も老女が酔っている。
         「ばあさん、娘さんからは相変わらず音沙汰なしかい?」
         徳さんが尋ねた。
         「アヽ」
         「海濱館が潰れたらどうすんだい」
         「電車にでもとび込んで死んじまうさ」
         「そいつア、穏やかじゃねえナ」
         気のいい徳さんは同情した。
         「娘さん、帰ってくるといいがね」
         「帰ってくるもんかい」
         「どうして?」
         「本当の娘でさえ親を捨てるご時世じゃないか」
         「そりゃまあそうだがよ…」
         「それにあたしゃ、あの娘に何一つしてやったことなどなかったもんね、
         こうやって酒ばっか喰らってサ…悪い小母さんだよ」
         「でも、長い事一緒にいたんだから、きっとそのうち…」
         老女は首を横に振ると、自潮的に、「みんなお酒が悪いのサ…」
         老女は勘定を置くと屋台を出た。しばらく上がっていた雨がまた降り出した。
         フラフラ歩き出す老女の後方に黒々と怪物のような形相をした海濱館がある。
         老女は建物を仰ぐと、「千両役者も落ちぶれ果てて、
         今じゃ、私と雨の中か…ハハハ…」
         老女は雨の中を濡れるに任せて歩いて行く。
         向こうからやって来たライトバンのあかりが老女の目に入った。
         その時、水たまりの水が鳳仙花のように弾け飛んだ。
         ライトバンはどんどん遠のいていく。
         「蓄生!どうしてくれんだ、馬鹿野郎!」
         泥水をまともに浴びた老女は大声で喚いた。

          六、

         楽屋にいつもやくざ風の男が二、三人出入りするようになったのは、
         それからまもなくのことだった。
         彼等は加藤虎之介の飼犬だった。どうやら直接いやがらせを始めて
         虎之介の軍門に下らせようという腹らしい。
         そんな或る日。
         最初に楽屋に入った従業員が、そこで首をくくって果てヽいる主人を
         発見した。老女もすぐその後、事件を知った。
         海濱館の主人は、どちらかと云えぱ興業師らしからぬ、温厚な人間だった。
         彼はこの海濱館を愛していたのだ。
         たとえストリップ小屋に身を落としても、どこまでもこの小屋を続けて
         いきたかったに違いなかったのだ。後に、従業員がこんなことを語った。
         「世問さまが何を言おうとストリッブの興業はやめんよ、どこまで堕ちようが、
         海濱館は興業を打つ小屋だからな、と主人は口ぐせのように云っていました」
         と…。それからまもなく、海濱館は閉鎖された。
         思えば明治の初期に造られて数十年間、人の一生にも勝るとも劣らない
         波潤な一生であった。
         このニュースにストリップ興業反対の人々は拍子抜けした。
         そして人々は日を重ねるに従って、そのことに興味を喪失していった。
         そんな時、再び海濱館が人々の記憶に甦った。
         それは、海濱館が全焼するという事件が起ったからだった。
         火の手が上ったのは、ちょうど午前の二時頃だった。
         低くたれさがった冬空に赤々と焔がとび散り、往来は野次馬で群がった。
         あくる日、新聞はこの事件をちょっとミステリアスに報道した。
         「海濱館、謎の出火。放火か?」
         同じ時、地方版の片隅に、「老女、電吏にとび込んで自殺」
         という記事が掲載された。
         しかし、人々の注意は殆どそれには注がれなかった。

                       <完>

        私自身が六十歳を越えてみると、四十年以上前、これを書いた二十歳
        (はたち) の頃考えていた六十歳代の人と、現在の六十歳代とは大分
        イメージが違う。現在では六十歳半ばだとあまり老女とは言わないだろう。
        この作品に出てくる老女は、現代なら七十五歳位でぴったりという感じだ。
        まてまて、自分ばかりまだ若いつもりでいても、世間からみれば、
        相変わらず六十歳を過ぎれば、もう立派な老人なのかも知れない…。


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