右朝の想い出


そういえば、あいつに返せなかったストローハットは何処にしまったのだろうかと考えていた。それは、あれは確かもう三年程前の夏、新宿末廣亭で彼のトリを聞いた後、楽屋を尋ねて一杯飲もうと誘った日に彼が飲み屋に忘れていったストローハットのことだった。あいつとは、学生の時、同じクラブの後輩、本名、田島道寛こと、古今亭右朝のことである。…という文章が、パソコンの中に残っていた。これを書いたのは、彼が肺がんで亡くなったのが2001年4月だから、もう15年ほど前のことである。その文章はこんな風に続いていた。

「それにしてもなかなか良かったねえ、今日の宮戸川」
 私たちは、もう何軒か飲み歩いて、気性のいい夫婦が小體にやっている
一杯飲み屋に落ち着いていた。
「学生の頃から上手かったもんな、あの噺」

将棋に夢中になって夜遅く帰宅した小網町の質屋の倅半七と、これも歌留多取りで遅くなった隣家の船宿の娘お花が、共に親から締め出しをくってしまう。霊岸島の叔父の所へ泊まりに行く半七に、お花は無理矢理ついて行く。察しのよすぎる叔父は、二人を二階に上げ、一枚の布団に寝かせてしまう。背中合わせに寝て夜が更けてくると、ポツリ、ポツリと振り出した雨、やがてどしゃ降り、しかも落雷。半ちゃん怖いってんで、齧りつくお花。緋縮緬の長襦袢の間に雪のようなお花の白い脚がスッとでてくる、そっから先は…本が破けていて判らない。

「まあね、十八番(おはこ)ってやつだからさ、アタシの。
でも、それにしても冷たいね。会の案内出してもちっとも
来てくれやしないんだから」
 右朝は又少し絡むように、私に言った。

彼が落語の世界に入ったのは、彼の思いよりずっと遅く三十を過ぎてからだった。それまで幾つかの仕事をしていたが、子供の頃から好きだった噺家の世界にどうしても入りたくて、執念にも近い形で古今亭の門をくぐったのである。が、後先の厳しいあの世界、一日入門が早ければそ奴はもう兄弟子である。十七、八の洟垂れを兄(あに)さんと立て、掃除洗濯から使い走りまで命令されたとその頃の苦労話しを何度も聞かされたものだった。その修行時代の辛抱たるや大変なものだったらしい。
「悪いよ、悪いと思ってる。何かと、色々、忙しくてね」
「そんなに忙しいのに、今日は一体どんな風の吹き回しだったんだい?」
「たまさか右朝がトリの看板の前を通ったから、素通りも出来ないでしょう」
「偶然ね。アタシゃ宝籤かい。薄情なもんだ」
「そう突っ掛かるなよ。気にいらぬ 風もあろうに 柳かなってね。
君みたいに直に尖がってちゃあ、やりずらくてしょうがないよ」
「ハ、ハ、ハ…突っ掛かるのはアタシの専売特許だってぇのを百も
承知の筈じゃあないの。でもホント言うと、実は嬉しかったったんだ。
久し振りにアタシを誘いに、楽屋まで来てくれたんだから」
「そう、良かった。ホッとしたよ…」
 私は、昔のように絡みがあまり後を引かない右朝に、正直少し安堵した。

そして、あれやこれやの昔話。飲みも飲んだり、強(したた)かに酔ってその店を出たのはもう午前の三時を過ぎていた。その日の右朝は、生成りの麻のジャケットに渋めのアロハといった粋な出で立ち。それに、預けたまま飲み屋に忘れていったストローハットで決めていたのだ。私は、幹線道路に出て空車のランプを点けた車を止めると、すっかり酩酊の右朝と講座着を入れた鞄を車に押し込み、近々又すぐにでも会えるつもりで、右朝を見送ったのだった。

それから半月程して、右朝が飲み屋に忘れたストローハットのことを私に報せてくれたのは、子供向けの図鑑などを出版している会社で編集を担当している飲み友だちだった。さっそく私は、彼のストローハットを引き取りに行ったのだが、その後がいけなかった。彼に渡そう、渡そうと思っているうちに、あっという間に1年程の時が経ち、右朝は予期もしなかった肺がんで突然逝ってしまったのである。 噺家としてはいよいよこれからという50代の若さで…。 そして、右朝があの日忘れていったストローハットは、まるで彼の形見のようにわが家に「居残り」したままになってしまったのだった。

などと書かれていた。そのストローハットは、玄関の戸棚の奥から見つかった。それを右朝の奥さんに返すことが出来たのは、確か、三回忌かなにかの追悼落語会が築地で催された時のような気がする。が、それも曖昧な記憶になってしまった。

そして、時が経ち、2年前、私にもがんが見つかった。今では、肝臓のがんはきれいになったが、肺に転移した初期症状で闘病生活を送る身になってしまっている。あの頃と比べたら、がんの治療法も格段に進歩しているので、今だったら右朝も、私同様、ケッコー元気で高座を務められていたのかも知れない。人の運命というものは、まったくもって分からないものである。右朝と同じ年の10月1日に死去した彼の師匠である志ん朝師匠もやはりがん。それも私と同じ肝臓がんだった。享年、64歳。どちらもあまりにも若過ぎた。私は、道半ばの右朝や志ん朝師匠の無念を思い、なに糞!自分はしぶとく生きてやるぞと、心に強く誓ったのだった。            


  日芸落研・夏の合宿 ギターを弾いているのが右朝、 
  手前が私。右朝が1年生、私が2年生の時。

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