ハマダ伝・改作版

作:濱田 哲二


『ハマダ伝・改作版』 その1 目次

イントロダクション
日大闘争とは
1968年(昭和43年)

イントロダクション

最初にこのハマダ伝を書き出したのは、還暦を迎えて半年ばかりが 過ぎた頃だった。 実は、若い頃、正確に言うと二十歳(はたち)の頃、私は、笑ってしまうが、小説家を夢みたことがある。今は、もう、遠い日のことである。でも未だに書くことは好きで、色々と創作活動を続けている。

そして、ある日、フト、思い付いたのである。 聖書に「マタイ伝」があるように、劇画に「カムイ伝」があるように「ハマダ伝」があってもいいのではと…。そういえば、私は、聖書、いやセイショウ(西湘)は小田原の生まれ育ちである。と、ついつい駄洒落に走るのは、本質的に、私は、軽くて遠浅な男なのだろう…。

私が生まれたのは昭和23年(1948年)1月3日。所謂、団塊の世代。平成15年(2003年)8月、約30年間世話になった外資系広告会社を、 定年を前にして早期退職。 それから、私の第2の人生が始まり、2014年面倒な病気が見つかり、手術をし、それから、その治療を続ける日々でもある。

そんな私が、二十歳(はたち)の時。ある文学賞の新人賞に応募した作品が、第三次予選を通過し、最後の20編(応募総数752編)の中に残ったのだった。その応募発表のあった月刊文芸雑誌は今でも記念に持っており、久し振りに見てみたら、通過した者の中に私のペンネームの他に、今は亡き、立松和平の名前があったりした。

そんなこんなで、この「ハマダ伝」、まずは、この作品の書き出しから紹介して行こうかと思っている。酔狂な方は、別途掲載しますので全編をご笑読ください。

「海濱館」

一、

その小屋に対する世問の風当りが強くなり始めたのは、ストリップの興業を始めた頃からだった。その名は、『海濱館』。昭和33年(1958年)、東京から数時問の距離にある小さな城下町のはずれに、明治の臭いを漂わせ、大仰に構えているこの小屋は、庶民が求め出したあちら風のモダンな建物とはおよそ縁遠い姿体を、今日も風雨に晒していた。

これも時流と言うものであろうか、浪花節や講釈、どさ廻りの芝居など、最早庶民の関心は皆無だった。茶の間に備えつけられたテレビという文明の利器はすっか人々を魅了し、猫も杓子もテレビ、テレビで、次の日の話題は力道山の空手チョップであり、白馬に跨る正義のカウボーイの活躍であった。同じ傾、娯楽の王様、映画産業も斜陽の第一歩をたどり始めた。しかし、邦画界はまだまだ強気だった。銀慕に、のっぺりした二枚目を登場させ、バツタバッタと悪入を斬り倒しさえすれば、盆と正月の興業は大成功と高をくくっていた。

が、人々にとってテレビは、あまりにも新鮮で魅力的だった。たちまちこの小都市の空には、アンテナという、奇妙な代物が林立し始めた。これを契機に、映画産業は急転直下、秋の陽のごとしであった…。

こういう世相を背景に、一昔前までは、芸人が上方から江戸へ来る際、一つの試金石とされていたこの小屋も堕ちるところまで堕ちていった。しかし、腐っても鯛。その道では関八州に知れ渡ったこの小屋の看板を盾に取って、いろいろな興業がくり返された。が、そのすべてはことごとく失敗に終わったのだった。そして、とうとう最後の手段。人問のスケベエ根性が狙いの裸踊りの興業と相成ったわけである。

今日も―。
三色刷りの怪しげなポスターが通り過ぎる人々の目を引いた。「悩殺!ピンク・ピンクショー 関西ヌード総出演」赤線が廃止されてからこの方、モヤモヤしたものをどう処理していいか見当が付かなかった男共は、辺りを気にしながらも、セッセとこの小屋へ通って行ったのである。

と、ここに決然と立ち上った人々がいた。それは言うまでもなく、良識の府を自称する主婦連のママさん連中であった。「戦国時代に遡って数百年、質実剛健の気風を生き抜いて来たこの由緒ある城下町から、あんな下賎なものは締め出せ!」眼鏡の奥にしょぼつかせた眼(まなこ)に吝気の炎を燃やしてストリップ興業反対の法螺貝を高らかに鳴らすのだった。 
         

この「海濱館」を新人賞に応募したのは、大学3年生の時だった。その頃、私は何かに飢えていた。が、何をしていいのか分からなかった。そんな、私は、日芸に入学すると、落語研究会に入っていた。

同級生には、東大教授で天文学者の息子、今は亡き、畑中クンがいて、放送作家・タレントとして今も活躍している高田文夫氏と、残念ながら鬼籍に
入ってしまった志ん朝師匠の弟子、古今亭右朝の田島クンが一年後輩にいた。そして、私が所属した放送学科の同級生で一番気になって付き合っていたのが、ユウジだった。この仲の良い友人たちが、「海濱館」の入った自費出版本を、手分けをして売ってくれたのである。

高田氏には、後に、「二十歳の時、一冊本を書いたかなと思ったら、すぐに筆を折っちまってさ。ホント、淡白質なんだから先輩は。『折れなかったペン』とか何とかタイトル付けて、もう一度何か書いたら」などと茶化されたことがある。だからではないが、今こうして書いているのかも知れない…。

大学3年の頃は、大学紛争がもっとも激しかった頃である。森田童子の「 みんな夢でありました」、「球根栽培の唄」などを改めて聴いてみると、 あの時代が胸に迫ってくる。そこで、今は、何でもネットで検索できる時代なので、改めて、日大闘争を調べてみた。


日大闘争とは

昭和43年1月、日大理工学部の教授が裏口入学の斡旋にからむ不正所得及び脱税事件が発覚。5月になって東京国税局が日大を家宅捜索した。この結果、22億円の使途不明金が発覚。しかも、この使途不明金が職員に対する闇給与や組合対策費、政治家への献金などに使われたとする疑惑がでた。この調査中、日大・会計課の職員が自殺するなど大きな事件に発展していく。

学生たちは、抗議集会を各学部単位で実施していたが、5月27日に全学部の合同集会によって「日大全共闘」が結成され、秋田明大が議長に選出された。日大全共闘は、全理事長の退陣・経理の公開・集会の自由承認など5つのスローガンを掲げて運動を展開した。日大全共闘は、デモや集会を繰り返すが、大学側も体育系の学生や大学外からの応援を借りて日大全共闘排除に動き出す。6月11日、日大全共闘は大学構内にバリケードを作り教室を不法占拠。この時、大学側と衝突し200人以上の負傷者をだした。

9月30日に、大学側と日大全共闘との協議は12時間続けられ、大学側が全面的に非を認め全理事の退陣その他に合意した。
が、当時の佐藤総理が内閣懇談で「日大全共闘の行為は、集団暴力である」と発言。これを受けて、大学側は9月30日の合意内容を一転し、合意を反故した。政府の意を受けた大学側はその後、機動隊出動を要請しバリケードを撤去し教室を開放した。

10月5日、日本大学の学生で日大全共闘議長・秋田明大ら8人に公務執行妨害・公安条例違反の容疑で逮捕状がでた。秋田らは学生運動を組織し不法にデモ集会を実施したとして警視庁公安課が行方を捜索していたのだった。公安課の懸命な捜査の結果、翌年の昭和44年3月12日に秋田は潜伏先の渋谷で逮捕された。

この日大闘争の頃―。
私は、絵に描いたようなノンポリで、その夏は、どういうわけか千葉の富浦で、高校時代からその経験があるというユウジをリーダーに民宿を経営していた。確か、当時の金で1人2万円位を出資して、5人で漁師の家をひと夏借り切り、朝晩の食事を出し、人を泊めていたのである。

屋号は、漁師の親父の名前をそのままに「長三郎」と言った。例え、儲からなくても、ひと夏(2ヶ月)、富浦の海で遊び、飲み代、食事代を入れてチャラになれば御の字というのが、コンセプトだった。

その頃、私は、ユウジのギターを借りて、見よう見まねでフォークソング 歌っていた。C(ツェー)の循環で弾ける馬場祥弘の「ケメ子の歌」とか、Am(アーマイナー)で始まる、岡林信康の「山谷ブルース」とか、フォー・セインツの「小さな日記」などを好んで歌っていた。

富浦での毎日は、怠惰そのものだった。雨の時は、当然客などなく、それでも夜になると、確か幸恵という屋号の、海の家に行き、付けで酒を飲んだ。そんな出費をしっかり管理していたのもユウジだった。

私はといえば、客が多い時は、そのお客さんの前で、落研で幾つか覚えていた下手な落語を恥ずかしげもなく披露したりしていた。又、前夜飲み過ぎて朝飯の支度も忘れて眠り呆け、お客さんに「朝飯まだなの」と、起こされることもしばしばだった。

こんな暢気なひと夏を過ごしていた時、日大闘争や東大闘争のゲバルトは、深刻さを増していた。「とめてくれるなおっかさん」である。でも、この問題には蚊帳の外を決め込んだ私は、テレビのニュースで機動隊と学生たちのぶつかり合いを、なるようにしかならないと醒めた目で見、あえて自分の問題として深く考えようとはしなかった。

そして、それより、私には、金嬉老事件や、三億円事件、東京オリンピックマラソン銅メダリストの円谷幸吉の自殺の方が印象的だった。特に円谷の遺書(高倉健主演、倉本聡脚本の「駅」の冒頭にも使われた)の内容に、何ともやるせない気持でいっぱいになったのを覚えている。

この富浦の夏、そして、あの頃は正に私の非政治的(ノンポリティカル・nonpolitical)太陽の季節だった。

僕は無精ヒゲと 髪を伸ばして
学生集会へも 時々出かけた

就職が決まって 髪を切って来た時
もう若くないさと 君に言い訳したね〜

荒井由実作詞、『いちご白書」をもう一度』の歌詞が、象徴する私たちの青春時代だったのである…。


1968年(昭和43年)

出来事

■メキシコオリンピック開幕
■グルノーブルオリンピック開催(冬季)
■川端康成氏 ノーベル文学賞受賞
■小笠原諸島日本に復帰
■3億円強奪事件
■日本のGNP、アメリカについで第2位に
■郵便番号制度実施
■石原慎太郎 青島幸男 横山ノックなどタレントが議員に
■日本初の超高層ビルである霞が関ビル完成(高さ147メートル)
■週刊少年ジャンプが創刊
■深夜ラジオ、オールナイト・ニッポン開始
■日本人が初めて南極点に到達(村山雅美隊長率いる第9次越冬隊)
■大気汚染防止法、騒音規制法施行

流行語

■ゲバ (ドイツ語の「ゲバルト」の略で権力に対する実力闘争のこと)
■五月病 (五月の連休明けの頃から多くなる大学新入生の無気力状態)
■サイケ(サイケデリックの略)
■失神 (女性のエクスタシーを意味する)
■ズッコケル (ザ・ドリフターズのヒット曲「ズッコケちゃん」からの流行語)
■ハレンチ (かっこいい、いかす、ニクい、などの意味で使われた)

ヒット曲

1位 天使の誘惑 黛ジュン
2位 三百六十五歩のマーチ 水前寺清子
3位 花の首飾り タイガース
4位 伊勢佐木町ブルース 青江三奈
5位 エメラルドの伝説 ザ・テンプターズ
6位 ブルー・ライト・ヨコハマ いしだあゆみ
7位 愛の奇跡 ヒデとロザンナ
8位 好きになった人 都はるみ
9位グッド・ナイト・ベイビー キング・トーンズ
10位受験生ブルース 高石友也

■日本レコード大賞:天使の誘惑(黛ジュン)
■日本有線大賞:盛り場ブルース(森進一)

1968年(昭和43年)もっと詳しく知りたければ


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