作:濱田 哲二 |
『ハマダ伝・改作版』 その2 目次 |
第1コマーシャル入社
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第1コマーシャル入社 |
1970年(昭和45年)、大学紛争でグチャグチになった大学に、結局1年半程まるで行かないまま、卒業ということに相成り、私は、「第一コマーシャル」というTVCFプロダクションを受け合格した。おっちょこちょいの同級生、畑中は、コネを上手に使って、当時、売れっ子作曲家だったいずみたくさんが社長のCM音楽製作会社オールスタッフ・プロダクションに潜り込んでいた。ユウジは、就職はせず、新橋に「青蛾」という飲み屋を出すことになる。そして、私の新宿ゴールデン街界隈入りびたりの季節が始まるのであった。
私と同期で「第一コマーシャル」に合格したのがCMの演出家として大成した木村草一氏。それから、2〜3ヶ月遅れで、岩ちゃんこと岩崎クンが入社。同じ、コマーシャルの飯を食うことになった畑中と、岩ちゃん、私の3人は、三バカトリオよろしく、夜のゴールデン街にズッポリと嵌る日々。 そんな私が、制作進行として付いた得意先は明治製菓だった。 明治製菓のコマーシャルは、その当時の一流クリエイターが企画制作に参加していた。
コピーライターの土屋耕一さん、その弟子の岩永嘉弘さん。アートディレクターの浅葉克己さん。カメラマンの横須賀功光(のりあき)さん、 小川隆之さんといった面々。私が、この明治製菓で最初に付いた仕事は、明治ピックアップというスナック菓子で、石坂浩二が出演したCM。コピーは岩永嘉弘さん、「あぁ、カルカッタ、カルカッタ」だった。 この頃、制作進行助手などといえば、売れている照明技師さんなどに、下郎どもと呼ばれた虫けらのような存在だった。だけど、私は、それを笑顔でこなし、なかなか評判のいい制作進行助手を勤めていた。ロケバスでは、学生時代に覚えた小噺などを演り、ハマちゃんハマちゃんと可愛がられていた。 そんな中で、今も、忘れていないのが、明治レモンドライの千葉の海岸ロケと、明治ストロベリーチョコレートの京都ロケ。そして、「けんかえれじい」の監督、鈴木清順さん演出でやった明治ピックアップの仕事だった。 まずは千葉の海岸ロケでのシネキンを担ぎ砂浜を延々と歩いた辛さだった。シネキンとは、その頃の我々のCM屋の符牒で、正式には何という名前だったか、覚えていないが、照明用のバッテリーのことである。それを両肩に担ぐと、あまり箸より重いものを持ったことのない私にとっては、まるで拷問に掛けられたような重さだった。しかも、それを持って、足場の悪い砂の上を歩くのである。 そして、明治ストロベリーチョコレートの京都ロケ。ロケ場所は、京都は高尾の神護寺。金堂への石段を奥村チヨの大原女が登っていくという設定。確かこの石段に来るまでにも急な石段を15分位登ったように記憶している。 |
鈴木清順監督のこと |
もうひとつの忘れられない思い出は、鈴木清順監督のことである。「明治ピックアップ」の時、ラッシュの編集を終えた後、監督に新宿二丁目の小さな飲み屋に連れていってもらったことがある。店の名は何と言ったか、清順映画に出てくるような、和服をゾロっと着た、ちょっと退廃的な感じのママがいる店だった。 私が、清順さん贔屓になったのは、高橋英樹主演、ヒロイン浅野順子の「けんかえれじい」(1966年)に衝撃を受けたからだ。北一輝が出てきて、「昭和維新の歌(青年日本の歌)」が流れた時は、それこそ感涙。が、それにも増して、その頃、彼の置かれていた状況とか逸話が、何ともカッコよかったからである。 逸話としては、松竹入社後、ダンディで名高い松竹トップクラス監督の木下惠介に、「あんな汚らしい男をうちの助監督につけるな」と言われ、現に一度も木下惠介の助監督はやっていない。とか…。 『東京流れ者』の虚無的なラストシーンが日活上役たちから大批判を受け 、急遽、ラストシーンを撮り直すことになった。とか…。翌年には、『殺しの烙印』で社長の逆鱗に触れ、日活を解雇されてしまい「鈴木清順問題共闘会議」が生まれることになる。とか…。ホント、話題に事欠かない人だった。インテリだけど、ちょっとアウトローで、ダーティーな感じが、その頃の私にとって、たまらない魅力だったのだろう。 そんな清順さんに、飲みながら「けんかえれじい」の演出に関して聞いてみたら、「とにかく、どんな道具で、どんな風に喧嘩させるか、そればかりを考えていたよ」と、飲んでる時に演出話は面倒臭さかったのか、只それだけ言っただけだった。何だかそれが実にカッコよかった。清順さんが、第一コマーシャルでCMの演出をやったのは
この映画監督失業時代のことだった。 それにしても、あの頃の私の仕事振りは、よくもまあ首にならないで済んだものだと思う位失敗だらけだった。まずは、「ネガ掛けちゃった事件」である。これは、読んでの通り、オールラッシュ試写の時、映写機にラッシュ(編集のためのポジフィルム)と間違え、ネガを掛けて写してしまった大チョンボのこと。 |
へんてこりんな会社 |
さて、この第一コマーシャルという会社、今、思い出すと、まるでギャグかコントに出て来そうな、ヘンテコリンなCM制作プロダクションだった。場所は、ラブホテルが林立する新大久保にあり、日雇いが職を求めて集まる公園がすぐ近くにあった。 社長の木暮さんは、東映の役者崩れ。確か、ジャガーに乗っていた。副社長の金丸さんは、ケチ丸と言われた位のしっかり者で、独立映画のプロデューサーを経て、CM界に。イメージはギラギラ。短髪でヒゲ、太縁眼鏡がトレードマークの、したたかな親父だった。カメラマンの佐藤さんは、東映でカメラマンをやっていたという人だが、その風貌は実直な事務員タイプ。その頃もう五十歳を過ぎていたかも
知れないベテラン・カメラマン。この会社で、唯一、海外に行っている人というから、感心していたら、戦争で南方に行っていただけだった…。 |
新宿ゴールデン街 |
そして、この頃、私は、新宿ゴールデン街界隈に入り浸りだった。良く行く店は、はぼ決まっていて、区役所通り入口の「ELLE」、ゴールデン街の「○羅治(わらじ)」と「しの」の三軒だった。 「あら、ハマちゃん、いらっしゃい。今日は、ひとり?」とノブ。いつものようにタンクトップでノーブラの胸が眩しい。「後から、岩ちゃんと畑中が来ることになってる」「岩ちゃんとハタ坊、一緒の仕事なのかな?」「多分、そうだと思う…」「何飲む?」「ビール」ノブは瓶ビールの栓を抜くと、私の前にグラスとビールを置いた。 ♪アイスキッドなにさ アイスさ キャンディーさ といった歌詞のコマソンを創っての、当て振りだった。「明後日、撮影なんだ」「スタジオで?」「そう、スタジオ」
などと話していると、岩ちゃんと畑中が入って来た。「おや、岩ちゃん、いらっしゃ〜い。ハタ坊もいらっしゃ〜い」「やめろよ、そのハタ坊っていうの」畑中が不満そうにノブに言いながら、カウンターに腰を下ろした。「同じ仕事だったんだって?」とノブ。「そう、緑屋のコマソンの打ち合せ」岩ちゃんが応えた。 このように私たちは、一癖も二癖もある業界人間たちが集まるこの店で、日々の仕事のことや時代のCMのこと、話題の映画や文学のことを飽きずに語り、美味い店や流行の店の情報を仕入れ、したたかに酔い、勘定は付けにしてもらい、次の店に出掛けて行く。これが日課のようなものだった。 それでは次に、「○羅治」での、女将さんとのやりとりを。 「おや、ハマちゃん、岩ちゃんに、ハタ坊、もう随分酔ってるね。あんまり酔っ払ってると店に入れないよ」「そんな酔っちゃいないよ、なぁ、岩ちゃん」「ンー、酔ってまシェーン」「ママさぁ、おしぼり。それから、そのハタ坊って言うの、やめてくれる」
口を曲げて畑中が言った。 すると、そこに歌わない流しのマレンコフがやって来た。さっそくギター伴奏で、畑中が軍歌を歌いだす。そして、私も、森の木かげでドンジャラホイ〜と続く。こうなると朝までエンドレスの状況に突入することがしばしばだった。 「おう、畑中に、濱田に、岩ちゃん。今日も、3バカトリオかい」と、しのさん。「また『ELLE』かい。たまには『しの』に口開けで来てもバチは当たらないよ。…そうそう、そういえば、こないだ坂田さんと、桜田さんと、蔵田さんと3人で飲みに来たわよ」この3人は、私や畑中が1年生で落研に入った時にはもうOBで、揃いも揃って噺の上手い先輩だった。しのさんと同期である。 そして、もう一度、「ELLE」に戻ろうという岩ちゃんに従って、再び、「ELLE」に。と、美人ママが女友だちとカウンターで楽しそうに飲んでいた。岩ちゃんが、ママと一緒に飲んでいるのは、東京コピーライターズクラブの会員で、「おはよう、マギーです」っていうコピーを書いた人だと教えてくれた。
多分、マギーとは、マギーブイヨンのことだったと思う。実は、この辺の景色が、私がコピーに関心を持つようになる切っ掛けだったのかも知れない。私が、コピーライターの道を歩み始めるようになるとは夢にも思っていない頃の話である。 3バカトリオの1人、岩ちゃんは、確か、1浪で早稲田の仏文卒だったと記憶している。大江健三郎の「万延元年(まんえんがんねん)のフットボール」に心酔しており、この年、三島由紀夫が、市ヶ谷の自衛隊東部方面総監部にて割腹自殺した時も3人で興奮して飲んだのを覚えている。 |
蔵田さんからの話 |
そんな私が、第一コマシャルに入って2年目を迎えようとしていた頃だった。小さなプロダクションだったので、もともと企画・演出部要員として採用されていたので、1年間進行助手を体験すると、企画や演出助手的な仕事の方の比重が大きくなるようになっていた。私は、こうした境遇にケッコー満足を覚え見よう見真似で企画をし、CMの楽しさに目覚め始めていたのである。 そんな時、落研の先輩、蔵田さんから思い掛けない話が舞い込んで来た。それは、自分はキャリアを積むために今の広告代理店を辞めて別の代理店に行こうと思うので、抜ける俺の代わりに南北社という広告代理店に来ないかという誘いだった。 しかし、蔵田さんの説得は、給料が上がるという目先の人参だけでなく、自分の将来をどう考えるかという重要なテーゼ含みだったので、畢竟(ひっきょう)真剣にチョイスを迫られる羽目になったのである。しかもその説得の中には「君はものを書く資質があると思うので、代理店に来てそのライターとしての資質を伸ばしてみないか」という殺し文句まで含まれていた。 そこで、私が考えたことは、以下のようなことだった。まず、年収が増えるのは素直にうれしかった。次に、第一コマーシャルに残った時の将来図はどうなのだろうと考えた。この会社にいたら、やはり、企画だけでなく、一端(いっぱし)の演出家 ならないと将来がないと思った。だけど企画力には自信があったが、演出の手腕に関してまるでイメージが湧いて来なかった。図面は引けるが、現場で人に指図して家を建てるという自信がまるでなかったのだ。 一方、南北社の制作部は、グラフィックと電波に分かれていて、私は電波制作に迎えられるということで、TVCMはもちろんあるが、ラジオCMのコピーや、商品説明のスライド・スクリプト等を書く仕事が増えるということだった。 そんな折も折、仕事でコピーライターの岩永さんに会ったので、このことを話すと、代理店に行くことをとても賛成してくれ、第一コマーシャルを辞めて南北社に入る間、僕の事務所でバイトをして、コピーのことを勉強すればいいと言ってくれ、とても嬉しかったのを覚えている。 |
ゴールデン街ブルース |
作詞:ハマダテツジ あいつも こいつも 今は亡い 憶い出します あの頃は… 岩ちゃん ハタ坊 それに俺 ゴールデン街に 入りびたり しのに わら治に ELLEに ぶん 白々明けまで 飲んでいた 花園神社の 赤テント あいつも こいつも 若かった 9時や10時は 宵の口 |
1970年(昭和45年) |
出来事
■日本万国博覧会(大阪万博)開幕(入場者6,421万
8,770人) 流行語 ■ウーマン・リブ (Women's
Liberation の略で ヒット曲 1位 黒ネコのタンゴ 皆川おさむ 141.5万枚 ■日本レコード大賞:今日でお別れ(菅原洋一) |
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