ハマダ伝・最新版

作:濱田 哲二



『ハマダ伝・最新版』 その2 第1コマーシャル入社  

1970年(昭和45年)、大学紛争でグチャグチになった大学に、結局1年半程
まるで行かないまま、卒業ということに相成り、私は、「第1コマーシャル」
というTVCFプロダクションを受け合格した。
おっちょこちょいの同級生、畑中は、コネを上手に使って、当時、売れっ子
作曲家だったいずみたくさんが社長のCM音楽製作会社オールスタッフ・
プロダクションに潜り込んでいた。ユウジは、就職はせず、新橋に「青蛾」と
いう飲み屋を出すことになる。そして、私の新宿ゴールデン街界隈入りびたり
の季節が始まるのであった。

私と同期で「第1コマーシャル」に合格したのがCMの演出家として大成した
木村草一氏。それから、2〜3ヶ月遅れで、岩崎クンこと岩ちゃんが入社。
同じ、コマーシャルの飯を食うことになった畑中と、岩ちゃん、私の3人は、
三バカトリオよろしく、夜のゴールデン街にズッポリと嵌る日々。 そんな私が、
制作進行として付いた得意先は明治製菓だった。

明治製菓のコマーシャルは、その当時の一流クリエイターが企画制作に
参加していた。 コピーライターの土屋耕一さん、その弟子の岩永嘉弘さん。
アートディレクターの浅葉克己さん。カメラマンの横須賀功光(のりあき )
さん、 小川隆之さんといった面々。私が、この明治製菓で最初に付いた
仕事は、明治ピックアップというスナック菓子で、石坂浩二が出演したCM。
コピーは岩永嘉弘さん、「あぁ、カルカッタ、カルカッタ」だった。
他に当時まだ夫婦だったマイク真木と前田美波里が出演し、横須賀功光
さんが、演出・カメラの明治梅酒ソーダ。奥村チヨが出ていた、小川隆之
さん演出・カメラの「あんまり甘いことおへんえ」の明治ストロベリーチョコ
レートと、「レモンの衝撃」、明治レモンドライ。
カメラマン秋山庄太郎氏のヌードモデルで鮮烈デビューしたハーニー・
レーヌが 出演した、明治ミオなどの制作進行助手を勤めていたのである。

この頃、制作進行助手などといえば、売れている照明技師さんなどに、
下郎どもと呼ばれた虫けらのような存在だった。だけど、私は、それを
笑顔でこなし、なかなか評判のいい制作進行助手を勤めていた。
ロケバスでは、学生時代に覚えた小噺などを演り、ハマちゃんハマちゃんと、
可愛がられていたのである。

そんな中で、今も、忘れていないのが、明治レモンドライの千葉の海岸ロケ
と、明治ストロベリーチョコレートの京都ロケ。そして、「けんかえれじい」
の監督、鈴木清順さん演出でやった明治ピックアップの仕事だった。

まずは千葉の海岸ロケでのシネキンを担ぎ砂浜を延々と歩いた辛さだった。
シネキンとは、その頃の我々のCM屋の符牒で、正式には何という名前だっ
たか、覚えていないが、照明用のバッテリーのことである。
それを両肩に担ぐと、あまり箸より重いものを持ったことのない私にとっては、
まるで拷問に掛けられたような重さだった。しかも、それを持って、足場の
悪い砂の上を歩くのである。
「何をモタモタしてんだ、走れ!」などという、照明マンの怒号で、仕方なく
駆け出す。重さが肩に食い込む。汗が目に入る。
正に、落語「唐茄子屋政談」の南瓜(かぼちゃ)を担ぐ若旦那の辛さだ。
「肩で担ごうとするから駄目なんだ。腰で担ぐんだよ、腰で。腰に天秤あて
がって、どうしようってぇの!」である。まったく、「乳母日傘で育った若旦那
が始めて重たいものを肩にした」に近い体験だった。

そして、明治ストロベリーチョコレートの京都ロケ。ロケ場所は、京都は高尾
の神護寺。金堂への石段を奥村チヨの大原女が登っていくという設定。
確かこの石段に来るまでにも急な石段を15分位登ったように記憶している。
この日は、朝早く雨が降り、雲っていたのだが、その雨に濡れた石段の質感
がいいからとロケは、開始されたのだった。
が、何カットか撮り終えた頃、天気が急に良くなり、陽が射して来たので、
石段がすっかり乾き始めて来たのである。
カメラを覗いていた小川隆之さんが、「画の質感が変わっちまったな、
石段に水蒔いてよ」 と言い出した。
進行にとっては、えっ、である。散水車など、もちろん持って来てないし、
ホースすらない。しかも、水場が、その石段の近くにはまるでなく、
5分ほど別の石段を降りて行かなければならなかったのだ。
それでも、水を蒔かなければならない。こうなればお寺にあるバケツを
借りて、気の遠くなりそうな広さの石段にひたすら水を蒔くしかない。
私たち制作進行、撮影助手、照明助手、手の空いてるものは全員、
バケツに水を汲んで、往復8分位掛かる石段を延々と登り降りした。
撮影現場では、こんなことは当り前の出来事なのだが、私にとっては、
これも拷問。その時、体力もない文科系の自分は、制作進行などあまり
長くやる仕事ではないなと、つくづく思ったのだった。

もうひとつの忘れられない思い出は、鈴木清順監督のことである。
「明治ピックアップ」の時、ラッシュの編集を終えた後、監督に新宿二丁目の
小さな飲み屋に連れていってもらったことがある。
店の名は何と言ったか、清順映画に出てくるような、和服をゾロっと着た、
ちょっと退廃的な感じのママがいる店だった。

私が、清順さん贔屓になったのは、高橋英樹主演、ヒロイン浅野順子の
「けんかえれじい」(1966年)に衝撃を受けたからだ。北一輝が出てきて、
「昭和維新の歌(青年日本の歌)」が流れた時は、それこそ感涙。
が、それにも増して、その頃、彼の置かれていた状況とか逸話が、何とも
カッコよかったからである。

逸話としては、松竹入社後、ダンディで名高い松竹トップクラス監督の
木下惠介に、「あんな汚らしい男をうちの助監督につけるな」と言われ、
現に一度も木下惠介の助監督はやっていない。とか…。
『東京流れ者』の虚無的なラストシーンが日活上役たちから大批判を受け 、
急遽、ラストシーンを撮り直すことになった。とか…。
翌年には、『殺しの烙印』で社長の逆鱗に触れ、日活を解雇されてしまい、
「鈴木清順問題共闘会議」が生まれることになる。とか…。
ホント、話題に事欠かない人だった。

インテリだけど、ちょっとマイナーで、ダーティーな感じが、
その頃の私にとって、たまらない魅力だったのだろう。

そんな清順さんに、飲みながら「けんかえれじい」の演出に関して聞いて
みたら、「とにかく、どんな道具で、どんな風に喧嘩させるか、そればかりを
考えていたよ」と、飲んでる時に演出話は面倒臭さかったのか、只それだけ
言っただけだった。何だかそれが実にカッコよかった。

清順さんが、第1コマーシャルでCMの演出をやったのは、
この映画監督失業時代のことだった。

明治ピックアップのCMは、これも清順流で、いきなり大胆なアップの
カットが入ったりで面白かったが、お得意先にはあまり評判が芳しく
なかったように記憶している。
でも、自分の編集(つなぎ)を頑固に押し通した清順さんは、やはり
カッコよかった。そして、あの新宿二丁目の夜は、今思えば、別にどうと
いうことはない一夜だったが、まだ人生駆け出しの私が、憧れの清順さん
に誘われて二丁目で飲んだという事実が、何とも嬉しく、今も、宝ものの
思い出のひとつとなっているのである…。

清順さんへの憧れは、改めて考えてみると、唐獅子牡丹の高倉健や、
緋牡丹のお竜の藤純子に憧れたのと、ほぼ同じ熱病のような感情だった
ような気がする。

それにしても、あの頃の私の仕事振りは、よくもまあ首にならないで済んだ
ものだと思う位失敗だらけだった。
まずは、「ネガ掛けちゃった事件」である。これは、読んでの通り、オール
ラッシュ試写の時、映写機にラッシュ(編集のためのポジフィルム)と間違え、
ネガを掛けて写してしまった大チョンボのこと。

そして、「部長試写すっぽかし事件」、これは、前日、ゴールデン街で
深酒し、明治製菓の部長へのラッシュ試写のラッシュを持ったまま寝過ごし、
クライアント試写をすっぽかし、社長に大目玉を喰らった一件。

「ロケマネ置忘れ事件」は、明治ミオの北海道ロケの時、羽田の出発ロビーに
ロケに使う費用全額の入った紙袋を置いたまま飛行機に乗ってしまい、離陸
寸前にそれに気が付き、ドアを開けてロビーに戻してくれとスチュアーデスに
懇願、大騒ぎした事件。これは、無線でロビーと連絡を取ってくれ、その紙袋
が見つかり、間一髪、セーフ。もし、その紙袋に大金が入っているのを誰かに
気づかれ持っていかれていたら万事休す。正に九死に一生を得たのである。

さて、この第1コマーシャルという会社、今、思い出すと、まるでギャグか
コントに出て来そうな、ヘンテコリンなCM制作プロダクションだった。
場所は、ラブホテルが林立する新大久保にあり、日雇いが職を求めて
集まる公園がすぐ近くにあった。

社長の木暮さんは、東映の役者崩れ。確か、ジャガーに乗っていた。
副社長の金丸さんは、ケチ丸と言われた位のしっかり者で、
独立映画のプロデューサーを経て、CM界に。イメージはギラギラ。
短髪でヒゲ、太縁眼鏡がトレードマークの、したたかな親父だった。
カメラマンの佐藤さんは、東映でカメラマンをやっていたという人だが、
その風貌は実直な事務員タイプ。その頃もう五十歳を過ぎていたかも
知れないベテラン・カメラマン。この会社で、唯一、海外に行っている
人というから、感心していたら、戦争で南方に行っていただけだった…。

佐藤さんのチーフに付いていたのが、私にチコとビーグルスを紹介して
くれた、正ちゃん。暫くしてフリーになると、チャールズ・ブロンソンの
マンダムのCMのカメラ・チーフ助手に。その後、カメラマンとして一本
立ち。癌で亡くなったという訃報を聞いている。

そして、自動ズームを自分で創ってしまった、手先が器用で、運転上手、
ロケ車両の運転手から這い上がった、やはりカメラ・セカンドのケンちゃん。
その下に、死んでもレンズを離しません的クソ真面目キャラの、太田クン。
企画、演出には、この会社のスターだった、桝井さんと、北尾さん。
そして、高校時代、野球の強い学校で美術部にいて、油絵具の付いた
上っ張りを野球部員に指差され、「ピカソ、ピカソ」と馬鹿にされたという、
これも企画・演出の二見さん。シャレがわかり、私ととても気があった人だ。

プロデューサーは、明治製菓を主にやっていた鯰ヒゲの相沢カッちゃん。
ホームビルの緑屋をやっていたのが、日芸の先輩、ヤッさんの愛称で
呼ばれていた、汗っかきの氏家さん。
緑屋店内をロケをしていて、照明を当てすぎ、スプリンクラーが作動して
しまい、商品を水浸しにしてしまったことも…。
制作進行には、コント55号の欽ちゃんに似ていたので、欽ちゃんと呼ばれ
ていた、キンちゃん。本名は石井クンだったような気がするのだが、
定かではない。そして、みんなのマドンナ、マチコさん。

それに、カッちゃんのお兄さんで、社長の親戚、背高ノッポの経理の
相沢さん。どん尻は、企画、演出として新卒で採用され、制作進行助手を
やっていたのが、私、岩ちゃん、木村クンの三人。確かこの会社が大学卒
の新卒を採用したのは、私たちがはじめてだった筈である。

第1コマーシャルには、こうした社員の他に、演出、カメラ、照明、
その助手さんといったフリーのスタッフが、作品毎に出入りしていた。
同期の岩ちゃんは、残念ながらもう鬼籍に入り、今では、消息の知れて
いる人は、数えるばかりになってしまっている。

そして、この頃、私は、新宿ゴールデン街界隈に入り浸りだった。
良く行く店は、はぼ決まっていて、区役所通り入口の「ELLE」、
ゴールデン街の「○羅治」と「しの」の三軒だった。

「ELLE」は、元コピーライターの美人ママが、スタイリストのノブと、
ブンちゃん、二人の女の子を使い、広告、出版、映画といった業界関係
の客が集まる店。
「○羅治」は、しっかりした女将さんと、映画の演出や美術をやっていた
健ちゃん(彼も鬼籍に入ってしまった)という親父の店。
「しの」は、日芸の落語研究会の4期ほど上の先輩で、その名の通り、
しのさん(今やゴールデン街の主)がやっている店。

それでは、ここで、小説風に、その頃のお店でのやりとりを古い記憶の
中から引っ張りでして書いてみようと思う。

まずは、「ELLE」である。

「あら、ハマちゃん、いらっしゃい。今日は、ひとり?」
とノブ。いつものようにタンクトップでノーブラの胸が眩しい。
「後から、岩ちゃんと畑中が来ることになってる」
「岩ちゃんとハタ坊、一緒の仕事なのかな?」
「多分、そうだと思う…」
「何飲む?」
「ビール」
ノブは瓶ビールの栓を抜くと、私の前にグラスとビールを置いた。
彼女はこの店の看板で、スタイリストだけあって、その時代のセンスを、
キラキラと全身から醸し出していた。GSの
タイガースのジュリーによく似た
風貌のコケティッシュな美人で、私より、確か1つか2つ年上だった。
この頃、彼女に惚れていた男は、枚挙に遑(いとま)がなかった筈である。
「仕事の方は、どう?」
「ンー、今、二見さんと明治のアイスキッドをやってる」
それは、アイスキャンデーのCMで、私も考えて二見さんと創った企画で、
麦藁帽に浴衣の子供が歌に合わせてケンケンパをするという単純なCM
だった。歌は「あんたがたどこさ」の替え歌で、

♪アイスキッドなにさ アイスさ キャンディーさ
 アイスキッドどこさ 明治さ 
アイスキッドを おやつに分けてさ
それを みんなで ちょいと食べる〜

といった歌詞のコマソンを創っての、当て振りだった。
「明後日、撮影なんだ」
「スタジオ?」
「ンー、スタジオ」
などと話していると、岩ちゃんと畑中が入って来た。
「おや、岩ちゃん、いらっしゃ〜い。ハタ坊もいらっしゃ〜い」
「やめろよ、そのハタ坊っていうの」
畑中が不満そうにノブに言いながら、カウンターに腰を下ろした。
「同じ仕事だったんだって」
とノブ。
「そう、緑屋のコマソンの打ち合せ」
岩ちゃんが応えた。
畑中は、学生時代からのアイビーで、岩ちゃんは、髪を長くしてパンタロン。
いつも流行の大きなピースマークのペンダントをしていた。
ノブは料理が上手く、包丁は左手で捌(さば)く。
この時も、手際よく摘まみの用意をしていた。
「やっぱりCMは、ワンカット処理だよ。そして、余計なこと言わないで
ワンコピー、これに止(とど)めを刺すね」
と畑中に岩ちゃんが言う。ここに来る前に話して来た続きなのだろう。
「CMはワンカット処理に限る」は、岩ちゃんの口癖だった。

この年、70年のCMでは、三船敏郎が「男は黙ってサッポロビール」とやり、
富士ゼロックスの加藤和彦が「モーレツからビューティフルへ」と訴えていた。
特に「モーレツからビューティフルへ」は、正に時代を言い当てて、
ひと際、光彩を放っていた。私のアイスキッドとは、えらい違いだった。

「俺のボトル、まだ、あるかな?」
と岩ちゃん。
「まだ、少し残ってると思うわ」
とノブ。この二人、なかなかいい感じなのである。
実際、この半年位後、岩ちゃんとノブは一緒に住むことになる。
つまり同棲というヤツだ。(『週刊漫画アクション』(双葉社)に連載され、
一世を風靡した上村一夫の「同棲時代」は、この2年後の72年から
始まるのである)

このように、私たちは、一癖も二癖もある業界人間たちが集まるこの店で、
日々の仕事のことや時代のCMのこと、話題の映画や文学のことを飽きず
に語り、美味い店や流行の店の情報を仕入れ、したたかに酔い、勘定は
付けにしてもらい、次の店に出掛けて行く。これが、夜の日課のようなもの
だった。

ある時は、畑中が好きな軍歌を歌いに歌舞伎町に。
又、ある時は、ゲイのいる新宿二丁目に。
もちろん、このゴールデン街の「○羅治」、「しの」、「ユニアン」といった
店をハシゴすることもしばしばだった。

それでは次に、「○羅治」での、女将さんとのやりとりを。

「おや、ハマちゃん、岩ちゃんに、ハタ坊、もう随分酔ってるね。
あんまり酔っ払ってると店に入れないよ」
「そんな酔っちゃいないよ、なぁ、岩ちゃん」
「ンー、酔ってまシェーン」
「ママさぁ、おしぼり。それから、そのハタ坊って言うの、やめてくれる」
口を曲げて畑中が言った。
「またELLEで飲んでたのかい」
「そう、ELLEから、ユニアン行って、そして、ここ」
「あぁ、そういえば、こないだ張さんが来たわよ」
張とは、私と畑中と同級の落語研究会の仲間で、父親が手広く事業を
している社長の息子だった。

「あいつは『道具屋』の後、『唖の釣り』やったんだよな、俺が『たらちね』
で、畑中が『狸賽』。春の合宿のコンパでさ、すっかり酔っちまって、
『こっちお水』、『こっちお酒』、『お水飲んで、ゲー!』なんて、やって、
面白かったよな」
「そうそう俺もハマダもおでこが広くてさ、一升瓶のラベルが貼れちゃった
んだよな、ハハハ…」
「『こっちお水』、『こっちお酒』、『お水飲んで、ゲー!』、
『こっちお水』、『こっちお酒』、『お水飲んで、ゲー!』ってね」
同じことを繰り返すようになると、私は、もうかなりの酩酊状態である。
「なに、訳のわからないこと言ってるの。ハマちゃんね、あんたは酔っ払うと
もうグチャグチャなんだから。帰りに、ゴールデン街の溝(どぶ)に顔突っ
込んで死んでたなんてことにならないでよ。うちを出た後、死んだなんて
ことになる 寝起きが悪いからさ」と女将さん。

すると、そこに歌わない流しのマレンコフがやって来た。
さっそくギター伴奏で、畑中が軍歌を歌いだす。そして、私も、森の木かげ
でドンジャラホイ〜と続く。こうなると朝までエンドレスの状況に突入することが
しばしばだった。

この店は、映画関係、芝居関係の常連が多く、普段は夜中2時頃が看板
だったのだが、時には朝の白々明けまでズルズルと。そして、いつも最後は、
女将に「もういいかげんに帰れ」と、叩き出されるのがお定まりだった。
あの頃は、女将も、私たちも若かったのである。


「しの」では…

「おう、畑中に、濱田に、岩ちゃん。今日も、3バカトリオかい」
と、しのさん。
「また『ELLE』かい。たまには、『しの』に口開けで来ても、
バチは当たらないよ。…そうそう、そういえば、こないだ、
坂田さんと、桜田さんと、蔵田さんと3人で飲みに来たわよ」
この3人は、私や畑中が1年生で落研に入った時には、もうOBで、
揃いも揃って噺の上手い先輩だった。しのさんと同期である。
「へー、先輩たちが…。俺に、白の水割りくれる」
と畑中。みんなも同じものを頼む。
壁を見ると貼り紙に、「借りて不仲になるよりも、
いつもニコニコ現金払い」と書いてある。

「そう言えば、しのさん、新宿リンダって知ってる?」
と思い立ったように私が尋ねた。
「何だい、その新宿リンダって」
「二丁目のゲイでさ、ショー・タイムに山本リンダを踊るんだけどさ、
それが抜群なのよ。最後は素っ裸で踊るんだけど、オチンチンをね、
股の間にしっかり隠しちゃって、『リンダこまっちゃう!』
それが色っぽいのなんのって!」
「へー、そんなのがいるのかい」
「もう評判!一度、誰かと行ってみるといいですよ。笑っちゃうから」
「あぁ、あれはホント、凄い!」
と岩ちゃんが相槌。するとここにも、マレンコフが顔を出す。
流しだから当り前なのだが…。

と、待ってましたとばかり、エンジンの音轟々と〜と
畑中がお決まりの軍歌を歌いだす。それに、私も唱和する。
歌い終えたところで、席を立つと、割り勘の現金払いで店を出る。
こんな感じが「しの」での飲み方だった。

そして、もう一度、「ELLE」に戻ろうという岩ちゃんに従って、
再び、「ELLE」に。
と、美人ママが女友だちとカウンターで楽しそうに飲んでいた。
岩ちゃんが、ママと一緒に飲んでいるのは、東京コピーライターズ
クラブの会員で、「おはよう、マギーです」っていうコピーを
書いた人だと教えてくれた。
多分、マギーとは、マギーブイヨンのことだったと思う。
実は、この辺の景色が、私がコピーに関心を持つようになる
切っ掛けだったのかも知れない。
私が、コピーライターの道を歩み始めるようになるとは夢にも
思っていない頃の話である。

このように、毎日といっていいくらい新宿ゴールデン街で飲んだくれて
いた私だったが、この頃の私は、口癖で、「今の仕事は見過ぎ世過ぎ、
そのうち絶対やってやる」と酔っ払う度に言っていたのを思い出した。
それは、たかだか一度、自費出版をし、その中の一篇が、懸賞応募で
いいところまでいったというたったそれだけの根拠で、まだ一念発起
すれば、作家としてやれるかも知れないという幻想を抱いていたから
だった。でも、実際は、ストイックに原稿用紙に向かうことなどまるでなく、
只々、目の前の日常に流されていただけだったのである。

3バカトリオの1人、岩ちゃんは、確か、1浪で早稲田の仏文卒だったと
記憶している。大江健三郎の「万延元年(まんえんがんねん)のフット
ボール」に心酔しており、この年、三島由紀夫が、市ヶ谷の自衛隊東部
方面総監部にて割腹自殺した時も3人で興奮して飲んだのを覚えている。

岩ちゃんは、仏文にいただけあってかなりの文学青年で、しかも、読んで
いる本の質が私とは大分違っていた。私はどちらかというとロジカルなもの
より、しっとりと甘やかなものが好きだった。畑中は、文学には無縁で、
私と、岩ちゃんがその方面の話になると、手持ち無沙汰に聞いている
ばかりだった

そんな私が、第1コマシャルに入って2年目を迎えようとしていた頃だった。
小さなプロダクションだったので、もともと企画・演出部要員として採用され
ていたので、1年間進行助手を体験すると、企画や演出助手的な仕事の
方の比重が大きくなるようになっていた。私は、こうした境遇にケッコー
満足を覚え、見よう見真似で企画をし、CMの楽しさに目覚め始めていた
のである。

そんな時、落研の先輩、蔵田さんから思い掛けない話が舞い込んで来た。
それは、自分はキャリアを積むために今の広告代理店を辞めて別の代理
店に行こうと思うので、抜ける俺の代わりに南北社という広告代理店に
来ないかという誘いだった。
私は、こうした業界にいるのに、この頃は、恥ずかしい話、広告代理店と
プロダクションの違いも、はっきりと把握していなかった。
ましてや、就職してまだ2年も経たないのに、もう別の会社に行くという
ことに抵抗感もあったので、この話には躊躇を感じていた。
第1コマーシャルの仲間は、みんないい人だし、この会社の中での自分
の存在価値も大分と上がって来ていたので、正直、私は、あまり気乗りが
しなかった。

しかし、蔵田さんの説得は、給料が上がるという目先の人参だけでなく、
自分の将来をどう考えるかという重要なテーゼ含みだったので、畢竟
(ひっきょう)、真剣にチョイスを迫られる羽目になったのである。
しかも、その説得の中には、「君はものを書く資質があると思うので、
代理店に来てそのライターとしての資質を伸ばしてみないか」
という殺し文句まで含まれていたのである。

そこで、私が考えたことは、以下のようなことだった。
まず、年収が増えるのは素直にうれしいかった。
次に、第1コマーシャルに残った時の将来図はどうなのだろうと考えた。
この会社にいたら、やはり、企画だけでなく、一端(いっぱし)の演出家
にならないと将来がないと思った。
だけど、企画力には自信があったが、演出の手腕に関して、まるで
イメージが湧いて来なかった。図面は引けるが、現場で人に指図して家
を建てるという自信がまるでなかったのである。

一方、南北社の制作部は、グラフィックと電波に分かれていて、
私は電波制作に迎えられるということで、TVCMはもちろんあるが、
ラジオCMのコピーや、商品説明のスライド・スクリプト等を書く仕事が
増えるということだった。

そんな折も折、仕事でコピーライターの岩永さんに会ったので、
このことを話すと、代理店に行くことをとても賛成してくれ、
第1コマーシャルを辞めて南北社に入る間、僕の事務所でバイトをして、
コピーのことを勉強すればいいと言ってくれたのである。

このひと言が、私の背中を押してくれた。そして、これこそが、
私がコピーライターとなる第一章のはじまりだったのである。


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