ハマダ伝・改作版

作:濱田 哲二



『ハマダ伝・改作版』 その3 目次

銀座の片隅、南北社
ロースカツ事件
まるで旅がらすのような日々
プロポーズ、便所の蛆虫
そして、結婚
1972年(昭和47年)


銀座の片隅、南北社

その頃、コピーライター岩永さんのオフィスは、赤坂プレデンシャルホテルの中にあった。場所は、六本木の防衛庁(現在のミッドタウン)を下りた辺り。ここには、それこそ、ほんの1ヶ月ほどお世話になっただけなのだが、ここでの体験はその後の私の広告屋人生に大いにプラスになる貴重なもので、岩永さんには今でも心から感謝をしている。そして、この赤坂プレデンシャルホテルで、後にコカ・コーラの仕事などであれこれ一緒にCM音楽を創ることとなる音楽ディレクターの小池さんを、岩永さんから紹介されたのだった。

赤坂プレデンシャルホテルには作曲家のすぎやまこういちさんのオフィスもあり、まだ若かりし小池さんはそこで音楽ディレクターの修行をしていたのである。彼は「亜麻色の髪の乙女」や「バラ色の雲」などのヒットを飛ばした人気グループサウンズ、ビレッジシンガーズのメンバーだったので、スターの1人として、その顔を知っていた。だから、その時は、あ、有名人!という感じで、私は、小池さんを仰ぎ見ていた。後に、小池さんにこの話をしたら、「あれっ、そうだったの」と、殆ど覚えていなかった…。

南北社に入ると、私は、トヨタ・ダイナという小型トラックのセールスマン向けスライドのスクリプトを先輩の蔵田さんから引き継いだ。が、実は、私は、運転免許を持っていないので、それでトヨタの仕事をしてもいいのかなと思って尋ねたら、トヨタチームに配属された訳じゃないので平気、平気、というので、そのことはあまり気にせずクルマの仕事をはじめるようになっていた。

私の入った部署は、電波制作部。ここも、又、楽しい人たちでいっぱいだった。部長の保坂先生。何故、先生と呼ばれていたかというと、専門学校の講師も勤めていたからである。先生には、テーマソングがあった。それは、童謡「ほたるこい」の替え歌で…

ほー ほー
ほさか ほー
あっちのさけは
にがいぞ
こっちのさけは
あまいぞ
ほー ほー
ほさか ほー

というものだった。つまり、それだけの酒好きだったのである。その下には、いつ出社してくるのか分からない金重さん。同じ日芸の先輩のチイちゃんこと塩沢さん。更に、契約社員で、落研のもう1人の先輩、CM演出家の桜田さん。そして、トラフィックにはクロちゃんというしっかり者の女性がいた。

南北社のオフィスは、東銀座に近い昭和通りに面していた。ここでの毎日も、ある意味では、やはりユルユルのズルズルだった。あまり仕事のない時は、もう4時頃から居酒屋に入り浸っていた。

その頃は、確か、まだ、「青春時代」で大ヒットを飛ばした作曲家の森田公一さんがやっていたサウンド出版という音楽プロダクションに在籍していた、今では作詞家として歌謡界の大御所になった荒木とよひささんが、よく私たちのところに出入りしていた。日芸の先輩で同じ部のチイちゃんと確か同級生だったので、荒木さんには、何かと仕事をお願いしていたのである。

この荒木さんにやってもらった仕事にホワイトスタッグという、ゴルフウエアのCMソングがあった。 このCMでは、落研の後輩分家クンに、モデルさんに混じってバイトで出演して貰ったのを覚えている。彼は、通称、分ちゃん。後に、「若いってすばらしい」で大ヒットを飛ばした槙みちるさんと結婚するのだが、ビレッジシンガーズの小池さんや、渡辺企画出身の平野さんたちとNOVAという音楽プロダクションの、プロデューサーとしても活躍、まだ40代の内に癌で早世してしまった。

彼は、立川志の輔師の高校の先輩で、志の輔師が落語家になる切っ掛けをつくった人でもあった。
この頃の分ちゃんは、まだ学生だったのか、ちょうど卒業したてだったのか、役者志望で頑張っていた頃だった。尚、荒木さんは、この年「四季の歌」を書き、その後、大ブレークするのであった。

こんな風に書いてくると、私の人生には、日芸、そして、落研の人脈というのが、とても重要な意味を持っているのが、よく分かる。

そして、南北社で私が担当した仕事はラジオCMが多かった。ラジオ関東でやっていた横浜トヨタの「キヨシとみゆ希のフィーリング・ドライブ」用のCMコピーを書いていた。出演していたのは、NHKヤングステージ101で人気だった、高橋キヨシさんと、一城みゆ希さん。キヨシさんは、ラテンが得意で、作家の藤本義一さんが詞を書いた「闘牛士の詩」は、秀逸で、私の大好きな歌だった。

他に、文化放送で深夜オンエアしていた「走れ歌謡曲」のCMもレギュラーで書いていた。この仕事では、トラックの深夜運転手さんの仕事振りを取材しようと、新人の女性演歌歌手とトラックに乗せてもらい、深夜のドライブインで演歌歌手の新曲キャンペーンをしながら、朝まで長距離ドライブに付き合ったことを覚えている。

又、私たちが、よく飲みに行ったのが大衆割烹の「三州屋」だった。ここには、電波制作のチイちゃん、トヨタグループのデザイナー、青木クンと大串さん、マーケティング・プランニングの小山さん、という人たちとよく行っては飲んだ。4時を過ぎると飲んでいたと前に書いたが、ネットで調べてみたら、「三州屋」は、4時半からの開店だった。多分、あの頃も同じだったような気がするから、開店するとすぐ飲んでいたのだろう。

さて、この南北社に入社し1年が過ぎた頃、1人の女性が電波制作に入って来た。それが、なにを隠そう、私の連れ合いになる人だった。家人との話は、あれこれ書いても仕方がないので、サラっと済まそうと思う。そう、ひとつ、こんなエピソードがあった…。


ロースカツ事件

私は、彼女のことを何となく気になる存在として意識していた頃のことだった。ある日、お昼を二人で行こうと誘うと、彼女は「いいわよ」とOKしてくれた。そこで、私は何処へ行こうかとあれこれ考えた末に、彼女に「とんかつ屋でいいかな」と言うと、これも「いいわよ」ということで、とんかつ屋に入ったのである。

私はロースカツを頼んだ。暫くして、彼女も同じものを頼んだ。あれこれお喋りをしながら食事は進んでいく。彼女はカツの付け合わせのキャベツを食べる。そして、カツを食べる。よく見るとカツの衣だけを食べている。あれっと思ったが、私は何も言わなかった。何と店を出る時には、ロース肉だけがしっかりお皿に残っていた。やはり変だなと思ったのだが、この時も何も聞かずに店を出た。

が、どうしても知りたくて、後で聞くと、彼女は肉を食べられない人だった。「肉は嫌いとはっきり言えばよかったのに、何故?」と聞いたら、「付き合わないと悪いかなと思って…」と応えた。これも、後で知ったのだが、彼女はケッコー食べものの好き嫌いが多かったのである。それにしても、コロッケでも、エビフライでもよかったと思うのに、何故ロースカツを頼んだのだろうか?

この件を、後で家人に聞いたらば、その店のメニューには カツしかなかったということだった。
ま、そんなこんなで、新たに飲み仲間の1人として若かりし頃の家人も加わって、私たちは毎晩よく飲んだ。銀座の路地裏で、ユウジのやっていた「青蛾」という店で…。飲み仲間は、チイちゃん、青木クン、大串さん、小山さん。大串さんはなかなかの女傑で、いくら飲んでもうわばみ。小山さんは映画好きで、黒澤映画の話をよくしたものだった。


まるで旅がらすのような日々

ところでこの頃、私は、小田原の実家から通勤していた。それは、第一コマーシャルに入って1年も経たないうちに、借りていた部屋の家賃が払えなくなり実家に戻っていたからである。都合がよいことに、第1コマーシャルでは、撮影や編集が深夜に及ぶことがしばしばだったので仮眠室というのがあり、そこに寝泊りするのは自由だった。

南北社に入ってからは、先輩のチイちゃんの家が神谷町にあり、奥さんの珠江ちゃんも日芸の先輩だったので、まるで自分の部屋のように寝泊りさせてくれたのである。
こう書いていくと、私という人間は、独立心が希薄で、本当に自立の出来ない人間だったのだと思う。大学時代から、何かというと友だちの家や下宿を泊まり歩いていたが、この悪癖は、南北社の時もまるで改まっていなかったのである。泊まり歩くといえば、大学時代にこんなことがあったのを思い出した。

それは、放送学科の同級生で、奥沢にある次郎ちゃんの家でだった。ある日、家で飲もうぜということになり、次郎ちゃんの家に私とユウジと遊びに行った時のことだった。次郎ちゃんの親父は、スキーでオリンピックに行った有名なスポーツマンで、その頃も確か日本スキー協会のような立派な組織で重職を務めていた。ユウジから聞いていたのだが、とても厳格な人で、次郎ちゃんは、その頃も、小学生のように親父には、絶対服従だったようなのである。

夏だったろうか、親父のウイスキーがあるからとジョニ赤のボトルを持ち出し、物干し場にテーブルを出し3人で飲んでいた。 次郎ちゃんは得意のギターの弾き語りで、マーロン・ブランド主演の映画「片目のジャック」の主題歌を替え歌で上機嫌に歌っていた。

片目のジャックは 目が片目 眼帯かけていた〜♪

とその時だった。下の方から、大きな声がした。「また、馬鹿どもが集まってるな!次郎、ちょっと降りて来い」「はーい!…(こっちに向かって)参ったよ、親父が帰って来ちゃった」と次郎ちゃん。「碌すっぽ勉強もしないで、又、酒飲んでるな。今日は一体、どこの馬鹿が集まってる。又、日大か」「拙(まず)いよな、帰ろうか!」と私が言った。

「大丈夫、大丈夫。ちょっと待っててな」というと次郎ちゃんは物干しを降りていった。
OFFで次郎ちゃんの声が聞こえてくる。「父さん、今日は、帰るの早かったね。ちょっとさ、気分転換してから、レポートみんなで書こうということになってるんだ、俺の部屋で…」「馬鹿が集まってレポート書いたって、碌なものが書ける訳ないだろ」「そんなことはないよ、三人寄れば文殊の知恵さ」「どうせ、学生風情で、他人(ひと)の家に来て盗み酒喰らっている奴らだから、馬鹿ばかりに決まっている!」まるで遠慮容赦がなかった。それから、暫く声が聞こえなくなると、5分ほどして、次郎ちゃんが戻って来た。「悪い、悪い。ちょっと手狭だけど、俺の部屋行こうか。そこで飲もう」「ホント、大丈夫かね」「いつもこうなんだよ、最初にパアパア言っちまったら、もう後は何も言わないし、絶対、顔も出さないから…」

そういう次郎ちゃんは、親父のDNAなのか、なかなかのスポーツマンだった。まだサーフィンなどほとんど誰もやらない頃から、サーフボードを抱かえ湘南の海に行っていた。だから、女の子にも、モテ、モテで、ファッションなんかも、流行の先端を上手に着こなす洒落者だった。

そして、あれは大学1年の時のことである。「饅頭事件」というのがあった。体育の必修で水泳合宿があったのだが、その時、遠泳の後、1人1個ということでみんなに饅頭が出た。疲れた後の甘いものは格別だった。
私たちのグループは20人位だったろうか、最後に部屋に入ってきた奴が、「俺の饅頭がない」と言い騒ぎだした。誰かが2個食べてしまい、1個足りなくて食べられない奴が出たのである。我慢すればいいのに、食べられなかった奴は、先生に告げ口をしたからたまらない、みんなを並べて「饅頭を2個食べたのは誰だ。白状しろ」と、先生。だが、誰も手を上げない。先生は、業を煮やし、「よし、連帯責任だ。1時間正座」と言って、全員に正座を命じた。喰ったのは一体誰だったのだろう。ズッと心に引っ掛かっていたことだった。

この日、次郎ちゃんの部屋で、どうした弾みか、飲みながらその話しになった。すると、「食べちゃったの、俺だよ」と事も無げに言う次郎ちゃん。「えっ、次郎ちゃんだったの!?」「そうだよ、饅頭1個位であんなに怒らなくてもいいのにな、先生も」と、いい気なもの。みんなあの時次郎ちゃんのために、1時間正座させられたというのにである。この時、これが、ホントの若旦那感覚なのだろうと、私は思った。実は、物干しで親父さんと次郎ちゃんのやり取りを聞いていて、まるで、落語の「干物箱」みたいだなと思っていたのだ。所謂、道楽息子と大店の大旦那の、典型的なパターンと同じもので笑ってしまったのを覚えている

結局、その日は、私とユウジは次郎ちゃんの家に泊めてもらい、翌朝、朝飯の席となった。その時、親父さんはもう出掛けていて、一緒に食事することはなかったので、 心からホッとしたのを覚えている。

このように、私は、大学時代から、よく家に帰れなくなると、他人(ひと)の家に泊めてもらうことに慣れっこになっていた。思い返してみると、学生時代は、同じ放送学科の同級生だった風見の下宿、高円寺のユウジの家、代々木上原の光男のアパート等々を転々としていた。前にも書いたが、第1コマーシャルの頃は、会社にしょっちゅう泊まり、南北社になるとチイちゃん夫妻の家に転がり込むことがしばしばだった。

考えてみれば、大学時代から南北社までの時代は、旅がらすのような、生き方をしていたような気がする。一度、家を出たら気のみ気のまま、まるでフーテンの寅さんだったのである。


プロポーズ、便所の蛆虫

そして、この頃―。
給料だって、第1コマーシャルの頃より良くなったとはいえ高が知れていた。それなのに、何かといっては夜の巷を彷徨していた。だから、飲み屋の借金も嵩み、サラ金の走りのような銀座裏の金融機関で、お金を借りたことも何度かあった。

が、そんな暮らしに、おさらばする決定的な切っ掛けになったのが、家人と一緒になろうという決意だった。

家人にプロポ−ズをしたのは、ユウジや乱暴な青木たち大学の仲間、そして、ユウジのガールフレンドと私たちの確か5人で蓼科に遊びに行った旅先での夜だった。言ってしまってから、私は、そのことの重さに気づき、情けないことに、その夜、何度も、何度も、大きな岩が自分の上に落ちてくる夢を見ては、酷い魘(うな)され方をしたのだった。私には本気で結婚するための準備など、心の準備も含めて何もなかった。飲み屋に借金はあったが、貯金通帳には貯金の貯の字もなかった。だから、経済的にいっても、まるで見境のないプロポーズだった。でも、賽は振られ、ものごとは前へ前へと進んでいったのである。

そして、そんな時、こんな話が飛び込んで来た。それは、落研の先輩、坂田さんからで、マッキャンエリクソン博報堂へコピーライターとして来ないかという、これも目から鱗の話だった。

ところで、私は、今でも酔うと、こんなことをよく話すことがある。それは、「便所の蛆虫(うじむし)」というちょっと自虐的な一席だった。

そう、この頃、私は自分のことを、まるで便所の蛆虫みたいだと思っていた。
私位の年齢の人だったら知っていると思うのだが、まだ水洗便所のない頃の
落としの便所で、たまに便器まで這い上がってくる蛆虫がいたのを覚えては
いないだろうか。私はあの姿を思い返して、まるで自分はあの蛆虫のように、
人生を這い上がっているなと事ある毎に思っていた。

それは、私が中学を卒業して高校を受験する時だった。

私立高校の講師を辞めて不安定な書家暮らしを始めた親父は、自分の書道教室は持っていたが、まだそれだけでは収入が不安定だった。その上、年嵩だったため、万が一、自分に何かあっても、私が手に職の付く工業高校に進めば、就職がしやすいという判断を下したのである。そこで、その頃、私がラジオやアンプを組み立てたりすることに熱中していたこともあり、普通科を諦め工業高校の電子科に進学することを私に薦めた。

が、私の本心は、小田原高校というあの地方では名門の県立高校を受験したかった。でも、家庭の事情というか、親父の立場がよく解った私は親父と先生の説得を受け入れ県立城北工業高等学校電子科に入学した。

幸いその後、親父の書道教室は軌道に乗り、親父の健康状態もよかったので、晴れて大学受験を許された。ところが困ったことに、私は、自分が理科系向きでないことを高校の2年間でいやというほど思い知らされたのだった。数学の授業の微分・積分は殆どチンプンカンプンだったし、製図をやれば烏口が上手く使えず、計算尺もそこそこ。この先、技術者としてやっていける自信がまるで持てなくなっていたのだ。

まずは、工業高校を卒業すれば工業大学というのが筋なのだが、私には、からきし受かる自信がなかったし、例え運良く受かったとしても一生電子技術を費えに生きるというイメージが全然浮かんで来なかったのである。と、その時、色々集めた大学入試のパンフレットの中に、日大芸術学部があり、放送学科には、技術コースというのが載っていて、テレビ局のテレビカメラを扱うような学生の写真が出ていた。私は、即座に、これだ!と思った。

それこそ電気ではないがビリビリっと来るものがあったのだ。受験に必要な科目も文科系の受験と同じで、確か国語、社会、英語位だった。数学がないというのは、正に天恵のようなものを感じた。そして、3年生の1年間は、担任の先生の判断で、電子科の授業の間に、1人自習のように文科系の受験勉強をしてもいいというお墨付きをいただき、それを実行したのだった。

結果、その高校の同級生の中ではほんの一握りだった大学進学を果たすことが出来たのである。他の仲間のように高卒で就職をせずに大学に行けたということは本当に特別なことに思え、親父に心から感謝したのを覚えている。これが、私が自分の這い上がり人生を実感した最初の出来事だった。

それから、私は日芸に入る間に、何を思ったのか、今は、もう何を書いたかは覚えていないが、四百字詰め原稿用紙三百枚ほどの未完の長い小説もどきを書いた。それを落研の4年生で文芸学科だった斉藤さんという先輩に読んでもらったのである。と、斉藤先輩は、文芸学科の教授だった作家の三浦朱門先生に読んでもらおうと、その原稿を三浦朱門先生に預けてくれたのである。

結果は、可能性があるので頑張りなさいということだった。どこまでちゃんと読んでくれたかは分からないが、それだけの枚数を書いたということを評価してくれたのだろうと思った。そこで、私は高校の時思い描いていた放送の技術コースに進むのは止め、脚本コースに行こうという決心をしたのだった。

が、前にも書いたように、大学紛争のドサクサで1年半は学校に行かなかった。私は、その紛争の間に、やはりこれも何を思ったか、何篇かの短篇やらTVドラマの脚本を書き、中学の時の仲間一光クンの協力を得て自費出版に至ったのである。自費出版の印刷は、親父の書道の生徒さんだった印刷屋の社長が格安で引き受けてくれた。これもツイていた。

そして、日芸を卒業した後、第1コマーシャルに入り、この業界の一番底辺の役割を体験させられることになった。それも束の間、企画や演出助手を任され、蔵田先輩の引きでやがて広告代理店に。その広告代理店も遂には業界で十指に入る外資系広告代理店から声が掛かるまでになったのである。

私は、自分の努力というよりも、自分の幸運にクラクラするものを覚えていた。それに加えて、この無鉄砲なまでの結婚である。でも本心を明かせば、何となくねねを射止めたあの藤吉郎といった気分だった。そんな時、私は、これで本当にいいのか?大丈夫なのか?と自問した。が、即座に、これでいいのだ、大丈夫だ、と思った。兎に角、前を向いてやっていけば、何とかなる。Let’s take a chance!だと…。

私は、きっと、この時、這い上がった便所の蛆虫が、さて、これからどうなっていくのかという、「変態」の季節を迎えていたのだろう…。


そして、結婚

結婚式は、マッキャンに入って2ヵ月後のことだった。

 

仲人は、南北社のトヨタ営業の部長をやっていた小金ご夫妻にお願いした。小金さんは、小田原出身で、言ってみれば同郷の先輩だった。小金さんのお父上は、郵政大臣を勤めた自民党の代議士で、ちょうど衆議院選挙があり南北社がポスターなどを創らせていただいたので、乱暴ながら私も選挙用の公約のスクリプトを書くお手伝いをさせていただいた。こうしてみると、その頃も、厚顔にケッコー何でもやっていたのである。

結婚式場は、南北社の杉野クンという、やはり日芸放送学科の後輩が探してきてくれた乃木神社だった。その時の芳名帖を久し振りに見てみたら、なるほどという人たちが出席してくれていた。

両家の親類縁者はもちろんだが、私の関係では、コピーライターの岩永さん、マッキャンからは坂田さんと、プロデューサーの堀ちゃん。南北社からは、司会としてチイちゃんこと塩沢さん、飲み仲間の青木クン、小山さん、大串さん、電波制作から吉田さん、杉野クン。落語研究会からは、顧問の佐貫先生(故人)、先輩の蔵田(故人)さん、同期の畑中(故人)。放送学科からは、ユウジと乱暴な青木。小田原時代の中学の仲間は、自費出版を手伝ってくれた007オタクだった一光クンに、順天堂という薬局の跡取りのリミちゃん、そして、中学三年の時の転校生なのに、何故かとても気が合った歯科医の竹中クン。第一コマーシャルからは、岩(故人)ちゃんとカメラマンに昇格したケンちゃん。ラジオ関東のディレクター古畑さんと、そのアシスタントの林さん。 それに、「フィーリングドライブ」のパーソナリティー、歌手の高橋キヨシさんと、一城みゆ希さん。もちろん、キヨシさんとみゆ希さんは歌を歌ってくれ、落研同期の畑中は、応援団長よろしく得意の日大節で、披露宴をしっかりと盛り上げ締めてくれたのである。

そして、この時、私は結婚式の引き出物のひとつとして、南北社の吉田さんにイラストを描いてもらい、私が物語を書き、手づくりの本を創った。それが、「お星さまのラーメン」だった。


1972年(昭和47年)

出来事

■札幌冬季オリンピック開催
■ミュンヘンオリンピック開催
■自動車に初心者マーク登場
■ハイセイコーが大井競馬場でデビュー
■日本の鉄道開業100年
■東北自動車道開通
■上野動物園でパンダ公開
■連合赤軍によるあさま山荘事件
■モスバーガーの第一号実験店舗が開店
■川端康成が逗子市でガス自殺

流行語

■お客様は神様です(三波春夫が舞台で言い、
レッツゴー三匹がこれをまねて流行った)
■ナウ(「今風でいい感じ」などの意味で用いられた)
■未婚の母(未婚で子供を産み育てる女性のこと)

ヒット曲

1位 女のみち 宮史郎とぴんからトリオ 138.3万枚
2位 瀬戸の花嫁 小柳ルミ子 69.5万枚
3位 さよならをするために ビリーバンバン 66.7万枚
4位 旅の宿 よしだたくろう 66.6万枚
5位 悪魔がにくい 平田隆夫とセルスターズ 65.1万枚
6位 ひとりじゃないの 天地真理 60.1万枚
7位 京のにわか雨 小柳ルミ子 56.9万枚
8位 別れの朝 ペドロ&カプリシャス 55.7万枚
9位 小さな恋 天地真理 54.7万枚
10位 太陽がくれた季節 青い三角定規 50.2万枚

■日本レコード大賞:喝采(ちあきなおみ)
■日本有線大賞:雨のエアポート(欧陽菲菲)
■年間アルバム1位:水色の恋/涙から明日へ(天地真理)

1972年(昭和47年)もっと詳しく知りたければ

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