作:濱田 哲二 |
『ハマダ伝・改作版』 その8 目次 |
青山一丁目の広告エージェンシー 北烏山の公団 住宅に 1980年(昭和55年) |
青山一丁目の広告エージェンシー |
マッキャンが神田神保町から青山一丁目に移転したのが、1978年(昭和53年)のこと。その年から青山ツインビル東館の19階〜23階は私たちの戦場となった。 そのことを、私がプロデューサーで2008年マッキャンでやった「Again展 atMcCANN ERICKSON」の柿本照夫氏の挨拶コピーが端的に表現しているので、ここに引用させていただく。 Again展開催に当たって。 僕らはかつて全員マッキャンにいた。正確に言うと、マッキャンエリクソン博報堂の制作局に在籍していた。広告が熱く、どろどろにたぎっていた時代だ。70年代から80年代にかけてのことで、バブルのずっと前だ。だれもがいい広告をつくりたくて、おそろしく燃えていた。 社内は年中、不夜城だった。営業とも派手な喧嘩をしたし、クライアントから降ろされたことも再三再四だった。競合プレゼンになると、人格が変わったようにみんなガムシャラになった。ワープロも、ましてやパソコンもない時代である。ほとんどが手書きで、写植が全盛だった。なかには夕方5時を出社時間と決めていた者もいたし、飲み屋がいつも打ち合わせ場所の豪傑も限りなくいた。あの頃のマッキャンはいい意味でデタラメだった。 今回の出展者は、ひとりを除いてマッキャンから全員去っていった者ばかりだ。すでに広告業界を離れた者もかなりいる。あれから30年近くの歳月が流れた。ことし春先にかつての仲間で、アート・グループ展を開催した。大変な盛況で、さながらマッキャンOB会のような展覧会になった。その往年のエネルギーを感じてくれた後輩からぜひマッキャンで里帰り展を、との話をいただいた。 惨羅場をくぐり抜けてきた、僕らの「その後」がここにある。アートもコミュニケーションの一形態である。どこかにマッキャン・クリェイティブ魂を感じとっていただければ幸いである。果たして僕らの作品は、クリエイターの末路なのか、希望なのか。 高評をいただけたらと思う。すべてが懐かしいこの会社で、貴重な機会を与えてもらったことに全員感謝している。あとに続く人たちにとって、僕らが「未来」であることを願う。 地下鉄銀座線青山一丁目を降リて、そのまま地下街をエレベターまで行って20階を押すと、そこが私たちの働く制作局。雨の日傘いらずだった。 これらの得意先の広告のアイディアを考える時、広告表現のタイプからそのキャンペーンを考えることもあった。(以下は、マッキャンのプランニングの社員が、2000年に日本実業出版社から出した「広告がわかる辞典」からのタイプ分けである) 『デモンストレーション広告』:商品の機能上の特微を、映像や、音声によって実証して見せる表現、商品の優位性が視覚的にわかりやすく表現できる場合には、説得力が強く大きな効果を発揮する。<私の担当した靴の中敷ニオイ喰いのオドイーターの消臭デモがそうだった> 『イメージ広告』:あまりいい言葉ではないのだが、商品の具体的な機能を説明するのではなく、そこから得られるエンド・ベネフィットやそのブランドの持つ世界観を示す表現。ハードセルに対してソフトセル広告、ムード広告とも呼ばれる。<コカ・コーラのメインストリームキャンペーンは、もちろんこれ> 『テスティモニアル広告』:テスティモニアル(推奨)CMとは、実際の使用者がCMに登場し、その商品の優秀性を伝えるもののこと。有名人、スター、その道の権威者、一般のユーザー代表者を起用して推奨の言葉を語らせるもの。第三者が語るため、情報としての信憑性が増すという効果がある。<ケンタッキーフライドチキンで、主婦においしさ便利さを語ってもらった> 『タレント広告』:有名なタレントを起用することによって、そのCMのインパクトを高め、商品や企業名をアピールしようとするCM。タレント広告のメリットは、一般的に広告の認知率がタレントを使用しない場合より高いこと、ブランドのイメージを説明せずに伝達できること、競合商品との差別化が容易になることだ。日本ではタレント広告が全盛で、日本のCMの実に70%がタレント広告である。人気タレントになると、10社以上ものCMに出演している場合もある。しかし、こうなってしまうと、タレントは覚えているが何のCMだったかを覚えていないという結果になってしまう危険性も十分あり得る。<私もたくさん創ってきた> 『キャラクター広告』:既存キャラクターあるいはオリジナル・キャラクターを使ったCMのこと。マス広告だけでなく、POPやパッケージにまで露出させることで、親近感、統一性、差別化などをはかることができる。<ヴィックス・コフドロップのエヘン虫がそう。私も担当した> 『比較広告』:競合と比較しての優秀性を訴えるタイプのCM。アメリカでは、非常に多い表現だが、国民性からか、日本ではあまり多くない。日本で成功している比較CMの多くは、ユーモアを加えた比較広告である。また、一定の要件を満たさないと、景品表示法でいう不当表示になる恐れがあるので気をつける必要がある。<ペプシ・チャレンジというコーラの味見キャンペーンが、コークに対しての正にこれだった> 『スライス・オブ・ライフ型広告』:商品と消費者の関係を、日常生活の状況の中で捉え、そのシーンをスパッと切り取って見せることにより、消費者の生活実感としての共感を得ようとするCM。<コカ・コーラのCMには、このスライス・オブ・ライフ的シーンがよく登場した> 『面白・ナンセンス広告』:日本のCMの中で最も数が多く、また日本のCMに特徴的なのがこのタイプだ。タレントCMの中でもこのタイプの表現が多く見られる。<その当時、市川準さんや、川崎徹さんの作品が秀逸だった> 『ネガティブ・アプローチ広告』:商品やサービスの不利益を意識的に強調することにより、逆にその良さを印象づける手法法のことをいう。ほとんどの広告は、商品特性やベネフィットを肯定的に表現するポジティブ・アプローチであるため、非常に強いインパクトを持つ。ただし、その反面、受け手に不快感を与える危険性があるために、表現には細心の注意を払うことが必要である。 以下はネットに出ていた、室蘭の小さな焼き鳥屋さんのネガティブ広告。 ここ最近、週末になると雨が降ります。売上がありません。ですが、豚肉の仕入れ値がまた上がりました。飼料の値上がりが止まらないそうです。一般の皆様は高い商品を買い控えることができるのでしょうが、我々のような小売商店は高くても買わざるをえません。原油のせいで小麦などが上がっているのに、原油自体も上がりっぱなしです。エコという名の悪循環です。 さて、共感されるか、不快に思われるか?あなたなら、どちら!? |
北烏山の公団 住宅に |
ところで、この頃、私たち一家は、高井戸の賃貸アパートから北烏山の公団住宅に引っ越していた。初めての持ち家である。5階建て公団住宅の4階で、確か8畳、6畳、3畳の3部屋とキッチンという間取り。この部屋をリフォームして私たちは住むようになった。娘が幼稚園の年長の時で、小学校の入学に合わせての引越しだった。会社へは、久我山まで12〜3分歩き、井の頭線で渋谷に出て、地下鉄銀座線で青山一丁目というコースで通うようになっていた。
烏山北住宅の記憶は、あまり鮮明なものがない。実質的に家族で暮らしていたのは3年間位だった。そう、この住宅の購入を決めたのは、坂田夫妻が実家の土地に家を建てる前に、この北烏山住宅に住んでおり、そこに遊びに行った時この住宅のメリットを色々レクチャーしてもらったことと、娘が高井戸から通っていた幼稚園に同じ位の時間で行けたことがポイントだった。コンクリート造りのタコがいる公園をタコ公園、ブタがいる公園をブタ公園と呼んで、娘は同じ団地の友だちと、こうした公園でよく遊んでいた。そして、何もない休みには、娘を連れて家族で近くの芦花公園までブラブラと遊びに行ったものだった。 芦花とは、「不如帰」「自然と人生」「みみずのたはこと」などの名作で知られる明治・大正期の文豪、徳富蘆花のこと。調べてみたら、この蘆花は、明治40年2月まで、東京の青山高樹町に借家住まいをしていたが、土に親しむ生活を営むため、当時まだ草深かった千歳村粕谷の地に土地と家屋を求め、「恒春園」と称し、昭和2年9月18日に逝去するまでの約20年間、晴耕雨読の生活を送っていた。昭和11年の蘆花没後10周年忌に際し、愛子夫人から当時の家屋、耕地など旧邸地の一切が東京市に寄贈され、市では昭和13年、夫人の意向に沿って、武蔵野の風景を保存し、公園として公開を開始したということである。私たちは、秋になると家族でこの公園で椎の実拾いをしたのを記憶している。 そして、春は、何と言っても、会社の仲間との井の頭公園でのお花見が一大イベントだった。浜田山に住んでいた先輩グループヘッドの安積さんの仕切りで、毎年、恒例になっていた。残念ながら他界したアートディレクターの小松の完ちゃんや、今や、俳人として押しも押されぬ地位を築いている中原道夫氏。田端さんや、アッシー、ア太郎クン、ヨシヤ、Again展仲間の飯田クン。井の頭線沿線在住の仲間と、安積グループの面々、トランスレーター女史たち、そして、営業からも何人か。もちろん家族連れも多く、もう大変な人数が集まった。坂田さんも飲めないながらも、奥さんと顔を出してくれたりして、正に、この井の頭公園のお花見は、春の一大イベントになっていた。ここである年、家人がレイバンのサングラスを掛けていったら、みんなの話題になり、ハマちゃんちの派手女房としばらく言われていたという思い出も、今は懐かしい笑い話である。 そんな頃、1982年(昭和52年)11月8日、私の母が心筋梗塞で、突然、他界。 親父が小田原で一人暮らしになったので、時々、小田原へ様子を見に行かなければならないと、その翌年、私ではなく、家人が運転免許を取るために教習所通いを始めた。免許を取得して初めて買ったクルマは、車種名を忘れてしまったが中古のホンダの赤い2ドアセダンだった。そのクルマが届いた日、コカ・コーラ営業の川邉氏の誘いで、これも仲間裡では恒例の二子玉川の花火大会に出掛けて行ったのである。 兎に角、その日が初乗りなのに、いきなり凄い人混みの場所へ出掛けて行き、ナビゲーターの私は不慣れだし、混雑の中での車庫入れにも時間が掛かるわで、家人には冷や汗ものの大冒険だったようで、「何もあんな大変な日に初乗りしなくてもいいのに、ホント、新しもん好きなんだから。信じられない!」と、後々まで文句を言われたのを覚えている。 |
1980年(昭和55年) |
出来事
■第1回の全国規模のホワイトデー開催 流行語 ■赤信号、みんなで渡ればこわくない(漫才でビートたけしの台詞) ヒット曲 1位 ダンシング・オールナイト
もんた&ブラザーズ 156.3万枚 ■日本レコード大賞:雨の慕情(八代亜紀) |
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