ハマダ伝・改作版

作:濱田 哲二


『ハマダ伝・改作版』 その9 目次  

「McCANN ACTION」
声優 石原良
オールスタッフニューサウンド 代表取締役社長 伊藤強
東北新社 代表取締役社長 植村伴次郎
女優 大原麗子

コマーシャル演出家 根本光晴
プロダクションNOVA 代表取締役社長 平野謙一郎
元・歌手 山口百恵
作曲家 川口真
作曲家 すぎやまこういち
写真家、コマーシャル演出家 西宮 正明

「McCANN ACTION」  

この20周年を記念して創られた「McCANN ACTION」という冊子には、この頃のマッキャンと関係していたクリエイターやタレントさんたちから、色々なコメントが寄せられていたので、全部ではないがちょっとここで紹介してみたいと思う。

声優 石原良

ご存知コークのコマーシャルが電波に乗り始めて18年、この年月がそっくりマッキヤンとのお付き合いです。相手変われど主変わらずのたとえ。その間担当ディレクターは十指に余るほど。自由な気風と先取りしたセンスが共通のキャラクターだという印象ですが、褒めすぎかなァ?そう言えば、電話でコメントを貰ってミキサー氏と2人で録音したこともありましたっけ。ともかくスカッとさわやかな声が小生に続く限り、マッキャンは不滅です。

私が関係したコカ:コーラのTVCF、ラジオCMのナレーションは殆どこの石原良さん。特に大晦日のコカ・コーラ独占提供の民放ラジオのCMでは、いつもお世話になっていた。

(株)オールスタッフニューサウンド 代表取締役社長 伊藤強

私もコマーシャル音楽の仕事を始めて、マッキャンの年齢と同じ満20年になります。10年ひと昔といいますが、ふた昔仕事をしたことになります。
マッキャンの仕事で思い出すことはたくさんありますが、一番思い出にのこることはやはりピンキーとキラーズの仕事です。1969年、恋の季節でおなじみのピンキーとキラーズが契約した時からの お付き合いです。契約の時に営業の人と会い、調印の時になっであるスポンサーと外人の人達から不潔な長髪とトレードマークのヒゲを清潔にしろといわれた時、私は大変困りました。

ダービーハット、ヒゲ、ステッキと、珍妙なスタイルが売り物のピンキーとキラーズでしたので、そのヒゲを剃れといわれ、いずみたくと相談したらトレードマ一クのヒゲを剃ったら別人になってしまうので、そんなことはできないといわれました。私はマッキャンと会社の板ばさみ。現在ならこんなヒゲ騒動なんかなかったのではないでしょうか。このヒゲ騒動も、私には大変なつかしい思い出として残っています。皆様とともに頑張って、80年代の広告音楽に挑戦したいと思っています。

伊藤さんは、残念ながら他界した日芸落語研究会の同期・わが友畑中クンの上司。私が駆け出しの頃から、お世話になった大先輩で、最後にお会いしたのが2006年(平成18年)7月8日にあった畑中クンの新宿大飯店での偲ぶ会の席でだった。

(株)東北新社 代表取締役社長 植村伴次郎

マッキャン創立初期の作品は、当時のコマーシャルフィルム界の本流ではなかったが、常に明解で魅カ的でした。先輩格であるアメリカの、販売・宣伝戦略のノウハウと、それを日本の土壌の中に活かそうと努力したクリエイター達の情熱が、単なる風俗ではない、本当の意味で明るい、活力に満ちたアメリカ的な作品を生んだのだと思います。また、日本の広告界に与えた刺激も決して少なくなかったと考えています。したがって、当時のモノクロームのマッキャンの作品は、私の頭の中で、いつも色鮮やかな思い出なのです。

この「McCANN ACTION」が出た数年後、私は仕事で出掛けたニューヨークのホテルでお会いしご挨拶したのを覚えている。CMだけでなく、早くからハリウッドとの映画ビジネスを展開し、この業界では正に先駆者のお一人だ。

女優 大原麗子

チップスターのCMがきっかけでお付き合いしてからもう5年。リッツを含めもう何本CFをとったでしょうか。マネージャーの話によると、海外ロケが多くスケジュール調整に大変ご迷惑をかけているとか…。
代理店理の組織はあまり知りませんが、マッキャンのお仕事は事前にコンテの打ち合せを重ね、納得のいくまで話し合いをさせていただけるので、仕事にも張りが出てきます。時々見かける私のCFに、真夏の暑いアイダホの撮影が思い出され、同時にどんな結果が出ているのだろうとなぜか不安も感じています。今後も良いお仕事ができるようがんばりたいと思います。
(TBSロビーにて)

健さんの「網走番外地」のハツラツとした彼女の可愛さは、私の青春の1ページ。CMの仕事では、ご縁がなくご一緒したことはないが、この頃の大原さんは、本当に美しく輝いていた。1983年の「居酒屋兆治」のヒロインも忘れられない美しさだった。ナビスコの仕事では、私の場合、デビューしたての嶋崎和歌子さんとご一緒している。

コマーシャル演出家  根本光晴

もう何回目の試写だろうか。その度に、フーテージの膜面がいろんな見解で染めかえられてゆく。1時間少し経って、暗室のような試写室にやっと灯がともった。担当のY氏が私に言った。「ねもっちゃん。ありがとう。間違いなくクライアントに売れるヨ」。売れるという言葉。初めは、米国の代理店にしでは少し不釣り合いな言葉だと思った。その反面、こんなにも明解な表現も無いと感心したりもした。数日後、私の事務所に特徴あるY氏の声で電話があった。「ねもっちゃんBバージョンが売れたヨ。ありがとう」売れたという言葉。マッキャンで初めて耳にした言葉でした。そして、今も私が好きな言葉です。

私もねもっちゃんと呼んでいたが、残念ながらもう他界されている。私の仕事では、サッポロ一番「中華そば」の漫画家加藤芳郎さんのCMを演出していただいた。

潟vロダクションNOVA 代表取締役社長 平野謙一郎

私がはじめて、マッキャンに伺ったのは、確か17、8年前、神田美土代町の長谷川ビルだったと記憶しています。業界はカラー時代の夜明けを迎え、駆け出しの私などただうろうろするばかりの頃でした。以来今日まで、ひとつひとつの仕一事を通じて、多くのものを学ばせていただきました。それは、私自身の広告現場の歴史であったともいえます。マッキャンとともに歩んだ自負と今後の展望を、確信をもってもち続けたいと心から思っています。

平野さんももう鬼籍に入られている。日芸の落研の後輩、早世したブンちゃんこと、分家クンや、元ビレッジシンガーズの小池さんのボス。一緒に何度か酒席もご一緒した業界の素敵な先輩だった。

元・歌手 山口百恵

貴社とお仕事をさせていただいた約1年半の間は、私自身にとっても色々な変動がありました。その中でいつも私をやさしく見つめていただき、私のあらゆる面をカシオのコマーシャルなどを通じて引き出し、私を支えて下さったことを深く感謝しております。カシオのコマーシャルは私の本当の最後のお仕事になりましたが、親しくしていただいた貴社スタッフの方々に見送られて、芸能生活を閉じることができたことは私にとって一番忘れえぬことであり、幸運だったと思います。

調べてみたら、彼女のファイナルコンサートは、1980年10月5日、日本武道館で開催された。もう37年も昔のこと。本当に、時の流れは早いものである。

作曲家 川口真

音楽上の「好き」「嫌い」は、作曲家にもあります。この好みを活かす(あるいは押しつける)ことは、レコード音楽の場合よりコマーシャルのほうが難しいものです。マッキャンでの今までの仕事をふり返ってみて、このギャップで悩むことが比較的少なかったと思います。これはスポンサーの性格にもよるのでしようが、制作者の気質にも関係がありそうです。今後はこの「好き」が「時代遅れ」に、「嫌い」が「頑迷さ」につながらないよう、常に感覚をリフレッシュしなけれぱと考えています。

川口さんには、コカ・コーラなどの曲を、オーディションも含めて沢山書いていただいた。金井克子「他人の関係」、弘田三枝子「人形の家」などの大ヒットがあるが、由紀さおりの「手紙」が、私は大好きだ。

作曲家 すぎやまこういち

歌謡曲、コマーシャルと、私も、いろいろなジャンルの音づくりをやってきたけれど、ここで本当のことをいうと、一番好きなジャンルは弦楽曲。しかし、自分の好きな音楽と、実際の仕事がぴったりマッチするということは、数少ないわけで…。だから、最初にネスカフェプレジデントの話がきた時はうれしかった。リクエストは弦楽。渡りに舟という感じで、これはのりまくったわけです。気持ちのいいコンセプト、気持ちのいいスタッフに囲まれて気持ちのいい音を作るというのは、ほんとに気持ちのいいことです。ネスカフェプレジデントは、私のライフワークのひとつの作品として、大事にしたいと思っています。

すぎやまさんとは、直接、仕事をしたことがなく、ぜひ、やってみたかった作曲家の1人だった。

写真家、コマーシャル演出家 西宮 正明

昔、マッキャンというだけで仕事を断わった時期があった。何となく、外人がイニシアチブを取っているフィーリングが、外人に日本人の感じ方がわかるものかという不信感につながったからである。昨年来、コカ・コーラ1リットルサイズのコマーシャルフィルムを全部日本人モデルで演出撮影する仕事にチャレンジしてみて、逆にその印象を変えてしまった。徹底して、注意深く、完全に調査して進行する姿勢を、今は素晴らしいと思っている。今、自由に仕事をしている。

西宮さんとは、やはりコカ・コーラのCMを、今はアメリカで活躍している勢山ちゃんというプロデューサーのスタッフィングでご一緒したことがある。自信に満ち溢れた一徹者といった感じの演出カメラマンだった。



百恵ちゃんのところでも書いたが、この1980年は、もう35年前のこと。私が32歳の時である。青山一丁目の広告エージェンシーは、やる気と希望に満ち溢れ、それはもうキラキラと輝いていたのである。


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