さて、前にも書いたが、私が最初に他国の地を踏んだのは、中学時代からの友人で歯科医の竹中先生がUCLAに遊学している時のことだった。その時は、国際空港がまだ羽田の頃で、自費で行った貧乏旅行だったので、中華航空のディスカウント・チケツトで、当時、若者たちの憧れの地、ウエストコーストヘ出掛けたのが、とにかく最初だった。
ドキドキしながら、こうして一度筆降ろしをしてしまうと、面白いもので、外国に行くチャンスが次々と巡ってくるようになった。この頃になると仕事柄CMのロケー-ションなどで大概年に一、二度、外国へ出掛けるようになっていた。
というわけでロス初旅行の次にやってきたのは、媒体社ご招待のヨーロッパ研修旅行で、ロンドン、パリ、マドリツド、スイスなどへの旅だった。
この旅行では、マドリッドのホテルの部屋で、お金を旅行バックから抜かれたことが忘れられなかった。それも全額ではなく、日本円の一万円札数枚を抜かれるという、変なかたちでの盗難だった。まだその頃は、キャツシュカードなども一般的になる前だったのでみんな現金かトラベラーズチェックを持っての旅行が普通だったのだ。1978年、私がちょうど30歳になったばかリの頃である。
その後も韓国への研修旅行があったり、スプラトのハワイロケやアサヒビールの外人モデルのオーディションや、ケンタッキー・フライド・チキンの撮影で、ニューヨークに行ったりと、今では考えられないようなバブリーな仕事が続いていた。
これも、少し書いたが、コカ・コーラの仕事で、20日ほどアメリカに滞在したのは、ヨーロッパヘ行ったその翌年だった。赤と白のふたつの熱気球で、若者が空を旅するというアイディアのCMの擦影で、ロス、シアトル、ハワイと廻ったのである。私にとってこの時は、「Coke・PRESS」などというタブロイド版の新聞のかたちをとった読み物風プリント広告の、取材と、コピー・ハンテイングが目的だった。
ロスでは、ハリウッドにあるシューテイング・プロダクションの一室で、「エクソシスト」のプロデューサーのノエル・マーシャルさんや、ヒッチコックの「鳥」の圭演女優のテイッピー・ヘドレンさんなどにお会いして、まるで仲間のような親しさで声を掛けられ、握手されたのを覚えている。その年のクリスマスには、テイツピー・ヘドレンさんからクリスマスカードも届いてきた。
この時、もうひとつ記憶に残っているのが、シアトルでの天気待ちだった。私たちスタッフは、一週間「ディア・ハンター」のロケ地になったというマウント・ベイカーの晴れを待ったが、とうとう晴れはやつて来ず、CDで演出の坂田さんの判断で、カリフオルニアのマンモス・マウンテンまで大移動したという大変な思い出がある。この時、プロダクション・マネー-ジャーは毎日、天気の状況を地元の測侯所まで聞きに行ったのだが、彼らは晴れ、曇リ、雨と書かれたダーツを指差して、お前たちでダーツを投げてみて刺さったところがマウント・ベイカーの天気さと、ジョークを交えて言われるばかリだったという…。
私がドイツに行ったのはアサヒビールがライセンス生産していたレーベンブロイの、広告活動に関するプレゼンテーションでだった。その本社はミュンヘンにあり、得意先の担当の方2人と、私、そして営業の4名は、2日ほど本社にミーテイングに出掛けたが、あとはドイツの色々なビールを飲む研修体験旅行に明け暮れた、おいしい10日間だった。全階合わせると5,000席もあるというバイエルン風のマンモス・ビアホール、ホーフブロイハウスにも行ったし、アウトバーンを車で走ったり、ライン河を船で下リもした。全ドイツを通じて、これほど完壁に中世都市の姿を今日に残している町はないといわれている、ローテンブルクも訪れることができた。
そして、こんな思い出したくない経験もあった。
そう言えば、あの時のニュー・ヨーク・ケネデイ空港には、予定よリ随分早く着いてしまった。それが、あんな空恐ろしい体験のプロローグになってしまったのである。
私はその撮影に、一人遅れて日本を出発した。きっとあの頃は海外ロケにも大分憤れて、慢心の時期だったのかも知れない。空港でプロダクションのプロデューサーとコーディネーターが、当然私を待っているつもリで税関を出てみると、それらしい人影は空港のどこにも見当らなかった。こうなると、英語をほとんどしゃべれない私は、急に不安を覚えるばかリで、すっかリ落ち着きをなくしてしまっていたのだった。
すると、そこへ一人の若い外人が、「TAKAHASHI」というカードを持って近づいて来た。
「アー・ユー・、ミスター・タカハシ?」
「ノー・ノー・アイム・ハマダ」
そう言うと、その外人はミステイクでしたというようなジェスチャーをしながら、私のそばを離れていった。(こんな時、外人が話掛けてきたリするなよな、それでなくとも今、俺は不安でいっぱいなんだから…)そんな気持ちで、私はスタッフが早く迎えに来るのを念じながら、神経質に視線を空港のあちこちに走らせていた。すると、また、今度は中年の人のよさそうなイタリアンといった風情の外人が「HAMADA」というネーム・カードを掲げながら近づいて来て、私に尋ねた。
「アー・ユー・ミスター・ハマダ?」
「イエス・アイム・ハマダ」
私がそう応えると、その男はいきなリ早口で笑いを交えながら、いろんなことをまくしたて始めた。(何を言ってるのだろうか?)どうやらその男は、とにかく早く自分の車に乗れと言っているらしかった。私が本当にノー・プロブレムだろうねと尋ねると、その男はいかにも人のよさそうな表情で、もちろんノー・プロブレムだと応えた。
その時、私は、そんなやり取リをしながら、きっとこの男は制作プロダクションのドライバーかなにかで、みんな日本人スタッフは打ち合せがあって空港に来れないので、ネーム・カードを持って私をピツクアツプに行ってこいと指示されたのだろう、などと勝手に早とちりな解釈をして、すっかりその男のいうことを聞く気になってしまっていたのだった。
そして、私は決心したように男に大きな旅行ケースを渡した。男はそれを押して、私を空港の地下の駐車場へ導いた。そこにはビュイックが停めてあり、男は旅行ケースを後のトランクに入れ、私を後部座席に乗せると、ゆっくり車を発進させた。
と、車が地下の駐車場から表の遺に出たところで、最初に、私にTAKAHASと聞いてきた若い男が、いきなリ助手席に乗リ込んできたのだった。(いけない、もしかしたら俺はニューヨークの雲助タクシーに乗ってしまったらしい…)その時、私ははっきリと質の悪い連中の餌食になったことを悟ったのだった。
でももう後の祭リ、ドキドキと心臓が高鳴った。(そうだったのか、うまい手口だな。若い男がこれぞと決めたターゲットに、適当に日本人の名前を呼んで近づき、本名を聞き出し、改めてそれをカードに書くと、別な人間がさもそのターゲットを迎えに来たように再び近ずいて来たのである。金があって言葉もろくにしゃべれない格好のカモ、それが日本人。つまり、俺だったのだ…)
私は、その時、三度目のニューヨークだった。走っているフリーウエイは、確かにマンハッタンに続く道だった。でも、いつ脇遺にそれて、ホールド・アップ、身ぐるみ脱いで置いていけと言われてもまったくおかしくない状態が、私を完全に支配していた。
車はフリーウエイを逸れて、あまリ私の記億にない道を走りだした。私の中にまた緊張が走る。と、しばらく倉庫街のような寂しい道をひたすら走っていたビュイックは、再び見覚えのある景色の中を移動しはじめた。(信号のところで、隙があったら飛び出そうか…。待て、待て、下手に動いたら最後、取リ返しのつかないことになってしまうぞ)私は自問自答した。
(こうなったら運を天に任せる他はない。なるようにしかならないと開き直ろう)そんな風に思うと重苦しい気分の中にも、私は少し落ち着きが出て来たような気がした。するとマンハッタンの摩天楼がフイに私に近づいて来た。(どうやら大人しくしていれば、ホテルに辿リつけそうだ)とても疲れた気分で、私はそう思った。心の中は相変わらずハイテンションが続いていた。突然、ハドソン河に浮かんでいる自分を想像したりもした。それからどの位走ったろうか、やがて私の視界にセントラルパークが見えて来た。どうやら本当にホテルまで辿りつけそうだ。
私は急に緊張が解けていくのを感じていた。車が停まると、男が、「兄さんホテルに着きましたぜ」という風に蓮っ葉な感じで言った。そして、白タクの料金を私にも解る英語で、ゆっくりと言った。250ドルだという。高かったが、なによりも先ず、私はホッとした。(そうか、空港からここまでの正規料金がだいたい50ドル見当だから、相棒と100ドルづつ山分けという計算なんだな)私はそんなことを思いながら、50ドルを現金で、後の200ドルをトラベラーズ・チェックにサインをして渡した。
男は後のトランクを開けると、旅行ケースを取出し、兄さんよ…という表情の後、「ニュー-ヨーク・イズ・ベリー・デンジャラス」と言った。私は大金を巻き上げられたにもかかわらず、思わず、「サンキュー・ベリー・マッチ」と言ってしまっていた。
後に、この話は勝手に面白く脚色され、私がその雲助たちに「タクシー代いくら」と聞く代わりに、ところで運転手さん「ハウ・マッチ・マイ・ライフ?」と聞いていたなどという落ちまで付いて語リ継がれるようになったのだった。
何しろ誰でも自由にピストルを持てる国、私が騒げばいつその物騒ぎな物が出てこないとも限らない。ホント、あの時、私の頭の中はまっ白だった。が、そんな時、こう考えた。とにかく静かにしていよう。もし最悪の事態で、身ぐるみ脱がされる事になっても、抵抗するのは止そう。抵抗しなければ、命までは取るまいと…。
でも、あのハイウエイでの不安と苛立ちといったらなかった。今思っても、背筋がスーツと寒くなる…。言葉の出来ない哀しさ、自分がどんな切羽詰まった状況にいるのか、推測でしか分らないのだから穏やかではない。私はフロントグラスの向こうに夕陽に染まる摩天楼を見ながら、あの時ばかりは本当に俺の人生はこれまでかも知れないと思ったていた。でも、そんな気分まで行きついたから、かえって開き直ることが出来たのだろう…。
それから、私は、習慣の違う海外では絶対に迂闊(うかつ)なことはできない、でも、何か事が起こったら、とにかく、悪く考えないで、いい方に、いい方に、物事を考えるようにしようと思うようになっていた。
さて、この頃、私たちがCMを考える場合、まず、どんなCMにするかという、表現のベースになっていたのが「トーン&マナー」をどうするかということだった。
「トーン&マナー」とは
TVCMビジュアルやオーディオの全体的な雰囲気のこと。同じタレントを起用するのでも、若々しくはつらつとしたトーン&マナーと、活動的でコミカルなトーン&マナーと、ミステリアスで優雅なトーン&マナーでは、受ける印象が全く異なる。(広告がわかる辞典より)
そして、私の場合、食品や飲み物を扱った商品のCMが多かったので、いかに「シズル感」を出すかということに意識を集中していた。
「シズル」とは
シズルの語源は、ステーキを焼くときに発生するジュウジュウという音のことである。人は生の牛肉のかたまりを見ても食欲はわかないけれども、ステーキを鉄板で焼く音(シズル)によって食欲が刺激される。つまりシズルとは、人の官能を刺激して魅力を作り出すもののことであり、広告も消費者の官能を刺激して、商品をいかに「おいしそうに」見せるかが重要なポイントになる。(広告がわかる辞典より)
更に、CMを仕上げるに際して、「空気感」というニュアンスを大切にしていた。この「空気感」とは、その映像や音声に流れる微妙な風合いのことである。つまり「トーン&マナー」や「シズル感」などと相乗して生まれるイメージが「空気感」なのだ。こういうと何か禅問答染みてくるが、そうした感性を追求出来たのが、この時代のCMの贅沢なところだった。
例えば、同じ砂漠を描くのでも、この企画では鳥取の砂丘で済ますなどということはとんでもなく、ロスでもなければ、中国でも、オーストラリアの砂漠でもない。創り手の拘りとして、やはり、この「空気感」はアフリカに行かなければ成立しない。だからそれを得意先に提案し、受け入れもらい、アフリカ・ロケを敢行するという時代だったのである。CGによる合成技術が発達したのは、これより随分後のことである。
この頃、私に目覚めたのがブランド志向だった。いいものはやっぱりいい。
ブランド物にはそれだけの価値がある。という信仰にも似た考えだった。
このブランドとは、「焼印をつけること」を意味する
brander という古ノルド語から派生したといわれ、古くから放牧している家畜に自らの所有物であることを示すために自製の焼印を押したところから始まったのだという。現在でも
brand という言葉には、商品や家畜に押す「焼印」という意味があり、これから派生して「識別するためのしるし」という意味を持つように。「真新しい」という意味のbrand-new
も「焼印を押したばかりの」という形容が原義である。
このことから、他の売り手・売り手集団の製品・サービスを識別し、競合他社(他者)のものと差別化することを目的とした、名称、言葉、シンボル、デザイン及びそれらの組み合わせに磨きを掛けたのである。そして、他社(他者)の製品・サービスより優れていることを顧客に認識させることによって、顧客の安心感を獲得し、自有ブランドに「価値」が生まれることを目指したのである。
と、『ウィキペディア(Wikipedia)』には説明されていた。
でも、この頃の私のブランド志向とは、こんな高級なマーケティング思考に傾倒していたなどというカッコイイ話ではなく、私も世界買い漁りの卑しい日本人の一人として、やれヴィトンだ、POLOだと、目の色を変えていたということである。
今回のロケでは、あれを買い、次にはこれも欲しい。私もご多分に漏れず、身分不相応の、欲しい、欲しいの時代だったのである。流行のフライのブーツを買い、ZEROのジュラルミンケースを買い、いい気でフライを履いてZEROを持ち歩いていたことがあったが、体調の悪かった時、体力のない私は、そのブーツとケースの重たさに熱を出したことがあった。まったく笑っちゃう、お粗末な話だった。
が、ものの良さとは何かということを失敗しながらもあれこれと学んだのも事実。それこそ、若気の至れり尽くせり?で、色んなブランドに興味を持ち、欲しければそれを手に入れ試してみる。それによって目が肥え、自分のセンスが磨かれるという学習効果はあったようである。ま、何かに付けて、イケイケ・ドンドンのいい時代だったのである…。
因みに、この頃は、西武百貨店も全盛期。糸井重里さんのコピーで、1980年「じぶん、新発見。」
1981年「不思議、大好き。」 1982年〜1983年「おいしい生活。」と、素晴らしいキャンペーンが続いていた。「おいしい生活。」は、ウディ・アレンが登場し、センシィティブでハイソサエティーなライフスタイルを日常生活に取り入れようという提案。正に広告もブランド品同様、価値あるコミュニケーション手段として絶頂期だったのである。
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