作:濱田 哲二 |
『ハマダ伝・改作版』 その11 目次 |
デューアル・ライフ始まる
|
柳色映濠小塞孤 老松古石幾栄枯 当年偉傑在何處 嘆息英才不出無 柳色濠に映じて小塞孤なり 老松古石幾栄枯 亡父 濱田如月 自作七言絶句 「小田原城回顧」より 私たちは、この小田原に移るに当たり、軍需景気で一儲けをして建て、その後、事業に失敗した人から不動産屋を介して買い受けた家作の洋風応接間だけは残し、それ以外の部分を建て直すことにしたのだった。
その時、娘に、小田原に移ったら誕生日に犬をプレゼントすると約束をし、買い求めたのが、ビーグル犬のラッキーだった。犬種は、家人に拘りがあり、電話帳で調べ、早川にあったビーグル犬専門のブリダーの矢崎さんのところから買い求めることにした。電話で話し、子犬が生まれたら連絡を貰うということを約束し、子犬が生まれるのを待つことに。やがて、子犬が生まれたという知らせが入り、私たちは、娘と3人で子犬を見に行くことになった。 娘は4年生になる春に、お城の公園の中に建つ歴史ある城内小学校に転校をした。この時、私が創った詞があるので紹介しよう。
作詞:ハマダテツジ 春は桜の 隅櫓(すみやぐら) お堀に赤い 学び橋 白い帽子の 女の子 東京からの 転校生 父も通った その道を 風といっしょに 通います 雨に煙った 天守閣 石段登り 急々と 古い造りの 学び舎へ 東京からの 転校生 あじさい濡れて 咲いている 二の丸後を 通います もうすぐ夏の 城下町 本町小学校校歌 御幸の浜辺に よせくる雄波 かしこきみことば 御手植松に 従って、私は、城山に移ってから、4、5、6年の3年間は、学区外通学をした。通学路は、通称「青橋」という鉄道の上に架かった鉄橋を渡り、天守閣の下にある野球場の脇を通り抜け、城内小学校を横に見て、立派な藤棚のあるお濠の脇を本町小まで通った。子供の足で、30分位の距離だった。 このような学区外登校をしていた私に、その頃、どうしてなのか、やはり同じクラスに城山地区から学区外通学していた多賀クンという友だちがいた。多賀クンのお母さんは画家で、私が書家の息子だったので、どこか共通項があったのかも知れない…。 多賀クンは、ちょっと変わった奴で常識的な少年の私をいつも嫉妬させていた。例えば、多賀クンの描く絵は、乱暴なのだが自由闊達だった。家庭科の時間に雑巾を縫う授業があった時のこと、私たちは運針縫いを教えられた通り細かくやるのだが、彼は糸の感覚を信じられない位幅広にし、アッという間に縫い上げてしまう。不真面目なのか、悪戯心なのか、その本心が掴めないのである。それが、私には、たまらなく羨ましかった。自分も彼のような自己主張がしたいと思うのだが、私は、いつもまともなことしか出来なかった。 翌日、多賀クンに聞いてみると、粘ってそのカラスを貰って家に連れて帰ったということだった。それからというもの多賀クンは、自宅の李(すもも)の木にそのカラスを縛り、オウムのようにそのカラスに言葉を教えた。すると何日かして、そのカラスは「こんにちは」と言うようになった。 「小峰トンネル 冒険しよう」 知っているかい トンネルの 中にゃ水路が流れてて だから行こうよ トンネルに てっちゃん見つめ みつるクン それというのが みつるクン よせばいいのに てっちゃんは そしていよいよ 決行日! そんな夕方 みつるクン 給食の パンを届けにやってきて So darlin'
darlin'stand by me
多賀クンと私は、結局、小峯トンネルには行かなかった。 |
が、スリルを求めて、多賀クンとは、やはり蜜柑の季節になると、近くにある蜜柑山に蜜柑をくすねに出掛けて行った。私たちがまだ子供の頃は、小田原の蜜柑は商品価値が高く、大きな蜜柑農家には、東北から出稼ぎで蜜柑摘みの人たちが来るほどだった。 小田原の蜜柑は、蜜柑が収穫できるほぼ最北端に位置していた。獲れる蜜柑の酸味が強かったので保存が利き、和歌山あたりの蜜柑が出回った後、市場に出し、儲けたものだと聞いている。 だから、その頃は、蜜柑山の監視も厳しく、蜜柑をくすねるのは、これもちよっとした冒険だったのである。でも、くすねるといっても、ひとつ、ふたつ獲って、その場で急いで食べて、ひと遊びし、それでこのゲームは終わりだった。実は、この蜜柑を取る時、只、引っ張ってくすねると、枝に蜜柑の皮が花のように付いたまま残ってしまうので、誰から教わるでもなく、蜜柑の枝先をクルクル回して、枝だけを千切ったものだった。 そして、蜜柑狩りでは、蜜柑を剪定鋏で切る時の切り方のルールを教わった。それは、一度、切りやすいところで少し長めに切った枝を、もう一度皮すれすれで切るというテクニックである。それというのが、少し長めに切ったままだと小屋に保存する時、その枝先が他の蜜柑の皮に当たり傷が付き、そこから腐りが広がる恐れがあるからだということだった。 そんな風に大切に扱われた小田原の蜜柑も、今では、果物としての商品価値が低く、ジュースにするのが関の山だとか。真面目に栽培しても商売にならないという。が、私は、今でも、府抜けたような甘さの南国の蜜柑は嫌いで、ものによっては、口がひん曲がるほど酸っぱい小田原の蜜柑が大好きなのである。 そして、小田原に引っ越して1年ほど経った頃、私たちには2つの出会いがあった。その1つが、ラッキーの縁で、蜜柑山や畑を持っている荻窪の農家の遠藤さんとの出会い。このラッキーの縁というのは、散歩の途中でラッキーと友だちになったサムというやはりビーグル犬の飼い主の奥さんが、遠藤さんの畑の一部を家庭菜園に借りており、家人もぜひ畑をやってみたいと話したところ、それではと遠藤さんを紹介してくれたということだった。 だから、2匹はとても気が合い一緒になるとそれはよく遊んだ。そんな訳で、この頃から、都会育ちの家人が農作業にどっぷりと漬かる日々が始まった。だから当然、私にとっても週末になるとラッキーの散歩と畑仕事は、小田原暮らしの必須アイテムになっていったのである。 もう1つの出会いとは、散歩の道すがらスケッチを描いているところに出くわした画家の湯本さんとの出会いだった。湯本さんは奥さんの秀美さんも画家で、2人は、今の梅里の住まいのすぐ近くにキャンパスのあるASABI(阿佐ヶ谷美術専門学校)の出身で、静物や風景画を中心に描いている素敵な画家夫婦で、すぐに仲の良い友だちになったのだった。 このように、私たちは、東京時代にはなかった新しい知己を得て、家庭菜園で野菜やハーブを作ったり、この画家一家とバーベキューを楽しんだり、食事をしたりの、東京暮らしとは、又、ひと味違った暮らしを体験していったのである。それでは、この頃に書いたアルバムの中の文章を紹介しよう。 この頃、朝がいい。休みの日は、特にいい。ちょっぴりズルをして、ゆっくリ会社に行く日の朝などもなかなかだ。勿論そんな日は、晴れていなければだめだ。まだパジャマのままで 眠い目をこすりながら応接間まで歩いていくと、ガラス戸を開け、庭に差し込む朝の光を見ながら大きな欠伸をひとつ。 まるで摘みたての果実のようなさわやかな朝の光に、私は生きている喜びを感じるのである。 六月の庭には、濃いめのビロードの赤を思わすような薔薇と、まだ咲き残っているパンジーと、まもなく咲くだろうくちなしの蕾、更には、たくさん実を付けたラズベリーや、グミ。 風に若竹が揺れている。まだあおい色をしているが、やがては立派な黒竹になる筈だ。そして、その隣には紫陽花。春になって庭に出した、ゴムの木も、すこぶる元気である。CDカセットのスイッチを入れる。この頃、クラシックもよく聴くようになった。ヴィバルデイの四季、べートーベンの田園、その素晴らしさがおいしい空気のように実感できる。もちろんモーツアルトも、こんな朝にはぴったりだ。よく晴れた朝の陽射しが、とにかくいい気持。朝の光は、この頃の私のフレッシュジュースである。 私たちの身近に咲く花や、樹木、野菜たち、そんなものを写真に撮りたいと思い始めたのは、つい最近だった。オートボーイZOOM105、これで撮り始めて、やっと写真らしいスナップが撮れるようになったからだ。すべてカメラ任せの手軽さが、私にフィルムの無駄使いを助長させている大きな原因であることも、百も承知の上。と、まあ、そういうことで、最近、植物たちの写真を盲滅法撮っている。そして、思うことは、とにかく自然というものは本当に素敵だということだ。 ピーツ、ピーヨと笛のような声で、鵯(ひよどリ)が鳴いた。番いの鵯だった。木蓮の梢から、バサバサと羽音をたててその鳴声が空高く舞い上がると、今度は安心したように雀たちが、リビングルームの窓の外に設けた餌台で、旨そうにパン屑を啄ばみ始めた。他にもここには、目白や鶯がやってくる。今日も1日天気が、よさそうだった。 蕗の薹の一群が顔を出しているのは、荻窪用水脇の土手。私たちは薹の立ち過ぎているやつをさけて、いくつか摘んだ。「蕗味嗜もおいしいけど、私は蕗の薹を細かく刻んでお味噌汁にさっと落とすのが、香りがよくて大好き…」家人はそう言って、蕗の薹を鼻先に近づけた。 こんな風に、小田原の暮らしは、何とも心が洗われるような日々だった。 |
1984年(昭和59年) |
出来事
■1万円(福澤諭吉)・5千円(新渡戸稲造)・千円(夏目漱石)の新札発行 流行語 ■くれない族 (夫がかまってくれないなど自分のことは棚にあげて不満をもち、 ヒット曲 1位 もしも明日が…。わらべ
97.0万枚 ■日本レコード大賞:長良川艶歌(五木ひろし) |
GALLERY工+Withに戻る |