ハマダ伝・最新版

作:濱田 哲二


  『ハマダ伝・最新版』 その12 デューアル・ライフ始まる 

柳色映濠小塞孤 老松古石幾栄枯 
当年偉傑在何處 嘆息英才不出無

柳色濠に映じて小塞孤なり 老松古石幾栄枯 
当年の偉傑何處(いずこ)に在りや 嘆息す英才の出ざる無きを

亡父 濱田如月 自作七言絶句 「小田原城回顧」より

dual 【形】とは、二重の、二元的な、二つの部分から成るという意味で、
1984年(昭和59年)は、私が東京と小田原の間で、このデューアル・
ライフを始めた年である。

私は高校の時まで地元小田原の学校に学び、大学は、練馬区江古田
にある日大芸術学部に小田原から通学。第1コマーシャルに就職して、
一時、上北沢の安アパート住まいをしたが、すぐに経済的破綻をし、
小田原の実家に舞い戻り、結婚を機に、再び、東京暮らし。
高井戸に住んだ後、北烏山の公団住宅を購入し3年ほどして、
母が亡くなり1人になった父と暮らすために、家族で小田原に移り住む
ことになった。しかし、仕事柄、残業も多く、もちろん、付き合い酒も無視
出来ず夜が遅くなることがしばしばだったので、北烏山の家はいつでも
泊まれる状態で残しておいたのである。

私たちは、この小田原に移るに当たり、軍需景気で一儲けをして建て、
その後、事業に失敗した人から不動産屋を介して買い受けた家作の
洋風応接間だけは残し、それ以外の部分を建て直すことにしたのだった。

建て直したのは、リビング・キッチン、父の和室、私たちの寝室、
娘の部屋、そして、トイレに風呂。施工はセキスイハウスに依頼し、
その完成を待って、娘が転校し易い小学4年生になる4月の前に
引っ越をした。
その時、娘に、小田原に移ったら誕生日に犬をプレゼントすると
約束をし、買い求めたのが、ビーグル犬のラッキーだった。

犬種は、家人に拘りがあり、電話帳で調べ、早川にあったビーグル犬
専門のブリダーの矢崎さんのところから買い求めることにした。
電話で話し、子犬が生まれたら連絡を貰うということを約束し、子犬が
生まれるのを待つことに。やがて、子犬が生まれたという知らせが入り、
私たちは、娘と3人で子犬を見に行くことになった。

子犬は3匹いて、好きなのを選んでいいという。
そこで、そのブリーダーさんの家の中を歩き回る3匹をしばらく観察
することにした。その時、実をいうと他の2匹よりもラッキーは元気が
良くなかった。が、器量はラッキーが一番だったのである。
私たちは、そのルックスの良さでラッキーを選んだのだった。

もちろん、その時点では、まだラッキーと命名はしてなく、家に帰ってから
娘の意見を採用し、ラッキーと名づけた。
そして、ブリーダーさんに血統書を書いて貰うので、名前を連絡。
その結果、「ランカスター・シャーマン・ラッキー」という名前の血統書が
届いて来たのだった。ランカスターというのは犬舎の名前でシャーマン
というのは、確かお母さんの名前、そのシャーマンから生まれたラッキー号
ということのようだった。



やっと乳離れしたばかりのラッキーは夜になるとよく泣いた。
鳴くのではなく泣くというのがピッタリで、私たちはハウスをリビングに
ちゃんと用意をし、夜はそこで寝かせる躾をする予定だったのだが、
あまりにも切なそうに泣くので、私は我慢しきれず、私たちの布団の
中に入れてしまったのである。これで、もう二度と、ラッキーはハウス
などで寝る訳もなく、いつも誰かの寝床で眠る甘えん坊犬に成り下が
っていった。

娘は4年生になる春に、お城の公園の中に建つ歴史ある城内小学校
に転校をした。この時、私が創った詞があるので紹介しよう。


転校生

 (クリックすると曲が流れます)

      

  作詞:ハマダテツジ

 春は桜の 隅櫓(すみやぐら)
 お堀に赤い 学び橋
 白い帽子の 女の子
 東京からの 転校生
 父も通った その道を
 風といっしょに 通います

 雨に煙った 天守閣
 石段登り 急々と
 古い造りの 学び舎へ
 東京からの 転校生
 あじさい濡れて 咲いている
 二の丸後を 通います

 もうすぐ夏の 城下町
 潮の匂いが する町に
 白い帽子の 女の子
 東京からの 転校生
 まぶしい木漏れ陽 青い空
 夢といっしょに 通います


 

娘が転校した城内小学校は、実は、私が通った小学校はではなかった。
私も城山地区にある小田原の家に小学校4年生の時に引っ越して来た
のだった。学区は、城内小の学区だったのだが、それまで私たちは箱根
に上る国道1号線に沿って広がる十字町というところに住んでおり、
本町という小学校に通っていた。

城内小学校に通う子供たちは、小田原駅近くの商店街や、城山の住宅街
に住む人たちの子供で、本町に通う私たちは、海の近くに住むものが多く、
漁師や、魚問屋、蒲鉾屋等の子供たちが殆どだった。
だから、私たちは、城内の子供たちに比べ、気が荒く、裕福な蒲鉾屋の
子女の一部を除き、粗野な子が多かった。

本町小学校校歌

御幸の浜辺に よせくる雄波
箱根の山風 さやめきひびく
二宮神社の 銀杏の若葉
うけつぐ誉に かがやく光
至誠の訓に 心を磨く
小田原本町 いざやすすまん

かしこきみことば 御手植松に
わが学びやの 栄えおばうたう
ゆかりの城あと いしずえ固く
いそしむ我等に あふるる望み
協和の訓に 睦びぞあるる
小田原本町 いざやすすまん

 

従って、私は、城山に移ってから、4、5、6年の3年間は、学区外通学をした。
通学路は、通称「青橋」という鉄道の上に架かった鉄橋を渡り、天守閣の下
にある野球場の脇を通り抜け、城内小学校を横に見て、立派な藤棚のある
お濠の脇を本町小まで通った。子供の足で、30分位の距離だった。

このような学区外登校をしていた私に、その頃、どうしてなのか、やはり同じ
クラスに城山地区から学区外通学していた多賀クンという友だちがいた。
多賀クンのお母さんは画家で、私が書家の息子だったので、どこか共通
項があったのかも知れない…。
と、こうして小田原の話になると、どうしても私の少年時代の思い出を書き
たくなるので、しばし、ご容赦をいただきたい。

多賀クンは、ちょっと変わった奴で常識的な少年の私をいつも嫉妬させていた。
例えば、多賀クンの描く絵は、乱暴なのだが自由闊達だった。家庭科の時間に
雑巾を縫う授業があった時のこと、私たちは運針縫いを教えられた通り細かく
やるのだが、彼は糸の感覚を信じられない位幅広にし、アッという間に縫い上げ
てしまう。不真面目なのか、悪戯心なのか、その本心が掴めないのである。
それが、私には、たまらなく羨ましかった。自分も彼のような自己主張がしたい
と思うのだが、私は、いつもまともなことしか出来なかった。

そんなある日のこと。私と多賀クンは、一緒に帰ることになった。
藤棚のあるお堀の横を天守閣の方に登っていく道すがら、道を工事している
場所があった。その近くには一本の梅の木があり、その木には、ロープに
縛られたカラスが止まっていた。
その側で工事人夫のお兄さんが煙草を吹かしている。
多賀クンは、そのカラスの前に立ち止まると、その人夫に尋ねた。
「このカラス、お兄さんが捕まえたの?」
「そうだけど」
「可愛いね。どうすんの?」
「結局は、放しちまうよ」
「だったら、僕にくれないかな」
「どうすんだい」
「飼ってみたいんだ」
「子供にゃ無理だよ」
「そんなことはないよ、ちゃんと飼うからさ。僕にちょうだい」
「駄目、駄目、無理、無理」
人夫は取り付く島もなかった。
「くれるまで、動かないからね」
多賀クンはそう言うと、私に、「先に帰っていいよ」と言った。
私はどうなるか興味深々だったが、何かそこに居ては悪いような気がして、
それじゃあと先に帰った。

翌日、多賀クンに聞いてみると、粘ってそのカラスを貰って家に連れて帰った
ということだった。それからというもの多賀クンは、自宅の李(すもも)の木に
そのカラスを縛り、オウムのようにそのカラスに言葉を教えた。
すると何日かして、そのカラスは「こんにちは」と言うようになった。

私はそんな多賀クンに感心をし、又、いつものように嫉妬のようなものを感じた。
私は、十姉妹やカナリヤ、伝書鳩を飼っていたが、カラスは常識の外だった。
そして、何日か経った日のこと、そのカラスの綱が切られており、カラスが消え
たという話を多賀クンから聞いた。目にはいっぱい涙を溜めていた。
そして、近くにある高校の奴等の誰かが、きっと連れて行ったに違いないと悔し
そうに言った。

が、それから2、3日もすると、そのことはもうケロっと忘れたようだった。
すると、今度は、青橋の向こうにある小峯トンネルの中を流れる川には鮒や
鯉がいっぱいいるっていうから捕りに行こうよと言った。
そこは、東海道線のトンネルの中なので、子供はもちろん、一般の人間は
立ち入り禁止の場所だった。この出来事を、最近、私は歌詞にした。

てっちゃんの冒険

    作詞:ハマダテツジ

「小峰トンネル 冒険しよう」
小学4年の 夏だった
ある日のことです てっちゃんに
みつるクンが そう言った

知っているかい トンネルの 中にゃ水路が流れてて 
コイやウナギがいっぱいで 網ですくえば すぐ獲れる

だから行こうよ トンネルに
俺たちだけの 大冒険
とっても とっても スリルだぜ

てっちゃん見つめ みつるクン
どんぐり眼(まなこ)で そう言った

それというのが みつるクン 
国鉄勤めの父さんと 一度トンネル抜けていた

よせばいいのに てっちゃんは 
カラダがブルッと震えたが 思わずウンと頷いた

そしていよいよ 決行日!
残念 てっちゃん 高熱出して
学校休んで 水枕

そんな夕方 みつるクン 給食の パンを届けにやってきて
「病気じゃ 今日は しょうがない きっと行こうな また今度」
ニッコリ笑って そう言った

So darlin' darlin'stand by me
Oh, stand by me

多賀クンと私は、結局、小峯トンネルには行かなかった。
この冒険が中止になり、私は、心のどこかでホッとしたのを覚えている。
が、スリルを求めて、多賀クンとは、やはり蜜柑の季節になると、
近くにある蜜柑山に蜜柑をくすねに出掛けて行った。
私たちがまだ子供の頃は、小田原の蜜柑は商品価値が高く、
大きな蜜柑農家には、東北から出稼ぎで蜜柑摘みの人たちが来る
ほどだった。


 

小田原の蜜柑は、蜜柑が収穫できるほぼ最北端に位置していた。
獲れる蜜柑の酸味が強かったので保存が利き、和歌山あたりの蜜柑が
出回った後、市場に出し、儲けたものだと聞いている。

だから、その頃は、蜜柑山の監視も厳しく、蜜柑をくすねるのは、これも
ちよっとした冒険だったのである。でも、くすねるといっても、ひとつ、
ふたつ獲って、その場で急いで食べて、ひと遊びし、それでこのゲーム
は終わりだった。実は、この蜜柑を取る時、只、引っ張ってくすねると、
枝に蜜柑の皮が花のように付いたまま残ってしまうので、誰から教わる
でもなく、蜜柑の枝先をクルクル回して、枝だけを千切ったものだった。

そして、蜜柑狩りでは、蜜柑を剪定鋏で切る時の切り方のルールを
教わった。それは、一度、切りやすいところで少し長めに切った枝を、
もう一度皮すれすれで切るというテクニックである。それというのが、
少し長めに切ったままだと小屋に保存する時、その枝先が他の蜜柑の
皮に当たり傷が付き、そこから腐りが広がる恐れがあるからだということ
だった。

そんな風に大切に扱われた小田原の蜜柑も、今では、果物としての
商品価値が低く、ジュースにするのが関の山だとか。
真面目に栽培しても商売にならないという。
が、私は、今でも、府抜けたような甘さの南国の蜜柑は嫌いで、
ものによっては、口がひん曲がるほど酸っぱい小田原の蜜柑が
大好きなのである。

 

こんな想い出がいっぱいの故郷での私たちの暮らしは、順調に進んでいった。
私はといえば、小田原に帰るのが、ウイークデイは2日か、3日。もうこの頃か
ら、マッキャンは週休2日制だったので、土日はゆっくりカントリー・ライフを
楽しんでいた。こうした時、私の気持ちの中には、いつもブラザース・フォー
の「グリーンフィールズ GREENFIELUS」が流れていたような気がする。

ラッキーの散歩は、週末を除き毎日家にいる専業主婦の家人がするように
なっていた。が、土日には私も同行し、子供の頃遊び回った蜜柑山の中の
道を、ある時は、慰霊塔のある城山公園に。又、ある時は、荻窪の集落を
通り過ぎて辻村植物公園やいこいの森まで足を伸ばすことがあった。
そんな時、道の途中に設えられていた野菜の無人販売の小屋を覗くのが
とても楽しみになっていた。

そして、小田原に引っ越して1年ほど経った頃、
私たちには2つの出会いがあった。

その1つが、ラッキーの縁で、蜜柑山や畑を持っている荻窪の農家の遠藤さん
との出会い。このラッキーの縁というのは、散歩の途中でラッキーと友だちに
なったサムというやはりビーグル犬の飼い主の奥さんが、遠藤さんの畑の一部
を家庭菜園に借りており、家人もぜひ畑をやってみたいと話したところ、
それではと遠藤さんを紹介してくれたということだった。

 

この件で、家人からもっと話を聞いてみると、サムも、ラッキーを求めた早川の
ブリーダーのところから求めたようで、その時期からしてどうやら私たちが見せ
てもらった3匹の子犬の1匹のようだった。つまりは、ラッキーの兄弟らしいのだ。

だから、2匹はとても気が合い一緒になるとそれはよく遊んだ。
そんな訳で、この頃から、都会育ちの家人が農作業にどっぷりと漬かる日々が
始まった。だから当然、私にとっても週末になるとラッキーの散歩と畑仕事は、
小田原暮らしの必須アイテムになっていったのである。

もう1つの出会いとは、散歩の道すがらスケッチを描いているところに
出くわした画家の湯本さんとの出会いだった。湯本さんは奥さんの秀美さん
も画家で、2人は、今の梅里の住まいのすぐ近くにキャンパスのあるASABI
(阿佐ヶ谷美術専門学校)の出身で、静物や風景画を中心に描いている
素敵な画家夫婦で、すぐに仲の良い友だちになったのだった。

面白かったことに、その湯本さんの借りていた住まいとアトリエが、昔、私たち
の仲人をしていただいた小金さんのお父上、元郵政大臣の故・小金義照さん
が以前小田原の住まいにしていた家だったのには驚いた。

私は南北社にいた頃、この住まいに小金さんの選挙の公約スクリプトの
打ち合わせで一度尋ねたことがあった。湯本さんのアトリエにお邪魔した時、
そのことを懐かしく思い出し、思わず何か因縁のようなものを感じたのを
今でもはっきりと覚えている。

このように、私たちは、東京時代にはなかった新しい知己を得て、
家庭菜園で野菜やハーブを作ったり、この画家一家とバーベキューを
楽しんだり、食事をしたりの、東京暮らしとは、又、ひと味違った
暮らしを体験していったのである。
それでは、この頃に書いたアルバムの中の文章を紹介しよう。

「朝の光はフレッシュジュース」

この頃、朝がいい。休みの日は、特にいい。
ちょっぴりズルをして、ゆっくリ会社に行く日の朝などもなかなかだ。
勿論そんな日は、晴れていなければだめだ。まだパジャマのままで
眠い目をこすりながら応接間まで歩いていくと、ガラス戸を開け、
庭に差し込む朝の光を見ながら大きな欠伸をひとつ。
まるで摘みたての果実のようなさわやかな朝の光に、私は生きている
喜びを感じるのである。

六月の庭には、濃いめのビロードの赤を思わすような薔薇と、
まだ咲き残っているパンジーと、まもなく咲くだろうくちなしの蕾、
更には、たくさん実を付けたラズベリーや、グミ。

 

南天の白い花の向こうには、どくだみの可憐な白。
このどくだみを見て、私は鶴田静という人のエッセイを思い出す。
「もし私がその花の名を知らないで、自分で付けるとすれば、そう、
十字架草とかクールベルにしよう。(中略)クールベルとはフランス語で、
緑色のハート、である。(中略)しかし悲しいことに、私の十字架草には、
どくだみという名が付けられているのだ」確かにどくだみは、名前と
その匂いで、一般の人には嫌われているようだ。でも私も鶴田さんに
同感で、 漢方では十薬と呼んでその薬効を尊重するこの草が大好きだ。

風に若竹が揺れている。
まだあおい色をしているが、やがては立派な黒竹になる筈だ。
そして、その隣には紫陽花。春になって庭に出した、ゴムの木も、
すこぶる元気である。CDカセットのスイッチを入れる。
この頃、クラシックもよく聴くようになった。ヴィバルデイの四季、
べートーベンの田園、その素晴らしさがおいしい空気のように実感できる。
もちろんモーツアルトも、こんな朝にはぴったりだ。
よく晴れた朝の陽射しが、とにかくいい気持。朝の光は、この頃の私の
フレッシュジュースである。
アルバムの中にある、そんな文章の後は、小田原の家の庭の植物たちや、
うちの菜園の野菜たちのスナップが続き、「植物たちを撮る」という
タイトルが続いていた。

私たちの身近に咲く花や、樹木、野菜たち、そんなものを写真に撮りたい
と思い始めたのは、つい最近だった。
オートボーイZOOM105、これで撮り始めて、やっと写真らしいスナップが
撮れるようになったからだ。すべてカメラ任せの手軽さが、私にフィルムの
無駄使いを助長させている大きな原因であることも、百も承知の上。
と、まあ、そういうことで、最近、植物たちの写真を盲滅法撮っている。
そして、思うことは、とにかく自然というものは本当に素敵だということだ。

 

季節というものは、付き合えば付き合うほど絶妙だなぁという実感である。
それも一般に雑草と呼ばれている草や花こそ可憐で、そのまま野に置いて
置いてもいいし、そのいささかを手折って例えば花器に飾ったリすると、
突然それは辺リに素朴な芸術的芳香を放ってくれたりもするから、本当に
嬉しくなるのだった。

 

更に、「春の愉しみ」という文章も紹介しよう。

ピーツ、ピーヨと笛のような声で、鵯(ひよどリ)が鳴いた。番いの鵯だった。
木蓮の梢から、バサバサと羽音をたててその鳴声が空高く舞い上がると、
今度は安心したように雀たちが、リビングルームの窓の外に設けた餌台で、
旨そうにパン屑を啄ばみ始めた。他にもここには、目白や鶯がやってくる。
今日も1日天気が、よさそうだった。

 

ラッキーがリビングの日溜まりで、私と同じように大きく伸びをした。
家人が気に入リのロイヤルコペンハーゲンのティーポットで紅茶を入れている。
何かのお返しにいただいたメルローズ紅茶のスペシャルダージリンだそうだ。
この紅茶は、その芳醇な香リから紅茶のシヤンペンといわれている。
少し開けた窓から吹き込む風は、もうすっかリ春の風だった。

 


「散歩、一緒に行くだろ?」
紅茶を飲み終えると、私が家人に言った。ラッキーはもう大騒ぎだ。
「ンー、お天気がいいから…。」
家人がそう応えるか応え終わらないうちに、私はラッキーに急かされて
もうスニーカーを履いて、勝手口に立っていた。
家を出て、暫らくだらだらの坂を登ると、以前までは一面の蜜柑山だった
辺りまでやってきた。随分、この辺リの景色は様変わリしてしまっていた。
この春開校する関東学院のキャンパスの工事が、急ピッチで進められている。
よく晴れた空に、箱根の山並が美しい。春の愉しみのひとつは野草摘みである。
私たちはそろそろと歩きながら、道端の草叢や土手の野草に注目をした。
その気になって田園暮しを経験すると、何処に何があるかだいたい分かって
しまうから、面白いものだ。

 

蕗の薹の一群が顔を出しているのは、荻窪用水脇の土手。
私たちは薹の立ち過ぎているやつをさけて、いくつか摘んだ。
「蕗味嗜もおいしいけど、私は蕗の薹を細かく刻んでお味噌汁にさっと
落とすのが、香りがよくて大好き…」
家人はそう言って、蕗の薹を鼻先に近づけた。
「何ともいえない苦さが、旬を感じさせてくれるからね。土筆も摘んでいこうか…」
「蒲公英の葉も、柔らかそうなところをサラダに少し」
雲間から差し込んだ薄日が、家人の輪郭を優しく浮かび上がらせている。
日一分(ひいちぶ)、日一分、遠くで雲雀が鳴いたような気がした。

こんな風に、小田原の暮らしは、何とも心が洗われるような日々だった。


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