ハマダ伝・改作版

作:濱田 哲二


『ハマダ伝・改作版』 その12 目次  

骨董蒐集に嵌(はま)る日々
ブラッと骨董市に
お宝ソング
「カントリー夫人・紘子さんが行く」 
「Hiroko Farm」


骨董蒐集に嵌(はま)る日々 

又、この頃、私たち夫婦は骨董蒐集に嵌り始めた時代だった。と書き始めたが、いきなり話はちょっと反れるのだが、骨董ではないが、私はケッコー物持ちが良く、私が小学一年生の時に描いた絵を持っている。

これは、まだ十字町というところに住んでいた時のもので、
床の間に書初めが掛かってあるので、自宅のお正月の風景を
描いたものらしいのがひとつ。

 

それと、その頃、わが家で使っていたお猪口と徳利を描いたやつ。

 

更に、烏瓜(からすうり)と梟(ふくろう)、



 そして、猫の絵が出てきた。

猫を除いて、どれも、ちょっと子供にしては渋過ぎるモチーフだった。何となく覚えているのだが、烏瓜と梟は、親父の友だちの日本画家の森梅渓先生の掛け軸を見て描いたような気がする。

「門前の小僧、習わぬ経を読む」というが、どうやらこれは本当のことらしい。私の骨董蒐集のルーツは、もしかしたらこの頃から始まっていたのかも。前にも書いているが、私の親父は書道家で、書画骨董への造詣も深い人だった。中でも文房具、特に端渓などといった中国産の古硯への拘りは人一倍で、晩年にはコレクションもかなりの数を持っていた。

そう、私がまだ小学校に上がったばかりのこの頃、十字町の国道沿いに一軒の骨董屋があった。その骨董屋は経師もやっており、というか、今思うと、経師師が骨董を商っていたという方が正しいのかも知れない。そこに、少年の頃の私は、親父に連れられてよく行ったものだった。親父はここで、自分の作品の表装なども頼んでいたのである。

「ちょっと寄っていくからな」
親父が、いつものように自転車の後ろの荷台に所在なげに乗っている
息子の私に言った。
「すぐ終わるの?」
分かっていたが、私は親父にそう尋ねるのが常だった。
ここに寄ると、陳列棚から色々な骨董を出し、いつも話しが長くなるのだ。
その間、ジッと待たなくてはならないのは、実に退屈で、何故、こんな
ところに、こんな店があるのか、子供の頃は不愉快でたまらなかった。
「ま、そんなに長くはならないさ」
と言う癖に、すぐに1時間が過ぎ、2時間となるのだった。

今、思い返すと、話題になるものは、ある時は、書画の軸であり、
文房四宝であり、又、ある時は、陶磁器や生活雑器ということもあった。
「もう帰ろうよ」
退屈しきって私が言うと、
「隣の瀬戸物屋の狸でも見ておいで。国道に出ちゃあ駄目だぞ」
と親父はいつものように言うのだった。
瀬戸物屋の狸とは、例の通い帳を持った信楽の大きな奴だ。
「あんなのもう飽きちゃったよ」
「分った、分った、すぐに帰るから」
それから、又、30分位が過ぎ、やっと帰宅ということが常だった。
でも、そこで、私は、きっと骨董好きの大人たちの話を聞くとは
なしに聞いていたのだろう。だから、一度、この世界に嵌ると、
深みに入るまでに、そう時間は掛からなかった。

私が、こうしたものに興味を覚えたのは、北烏山住宅に移った頃からだった。 そして、小田原に来た頃からそれに輪を掛けて、蒐集熱にすっかり嵌っていったのである。だから、この頃の私の創作ファイルに、エッセイもどきのこんな原稿が残っていた。

ブラッと骨董市に 

ブラッと骨董の青空市に出掛けると、よくアンティーク好きが、あれこれと掘り出しものを探している景色に出会う。私たちも、そんな彼らと同じような感覚で、いつも骨董の市をうろつき回る。やっているのは、休日の日の出から、日没まで。普段使いの食器としての古伊万里、インテリアとして面白味のあるアンティークを、家人と二人して捜す。
これがすっかり私たちの愉しみのひとつになってしまった。

ところで、私たちが始めて骨董らしきものを買ったのは、1枚数百円という印判の皿を数枚買ったのが始まりだった。その後、世田谷のボロ市でも、茶碗を1つ買った記億がある。これも500円位のものだった。まだ幼かった娘を連れて、新井薬師の骨董市に行ったのは、それから少し経ってからのこと。近くの公園の砂場で娘を遊ばせたのをなんとなく覚えている。浜田山の小さな骨董店で、傷ものの古伊万里の酒器や、
印判の大鉢を買ったのも、この頃だ。それでは、これなら確かに骨董と呼べるものを、最初に買ったのはいつの頃で、何だったのだろう?

それは、きっと、古伊万里の染付けの壷が、そうなのだろう。確か1万5〜6千円だったろうか、その当時の私たちにしては、清水の舞台から飛び下りたような大散財だった。

 

何度も手にとり、ドキドキしながら、どうしよう、どうしようと迷い、考え、そして、ついに買うことを決心した。それが、平和島のアンティーク・フェアだった。とても懐かしい思い出である。

そう、この頃から、私も、本格的に古伊万里に興味を抱くようになってきた。そして、それを決定的にしたのは、箱根は宮の下の大和屋で錦手の古伊万里の5脚揃い6点セットを60万を2割引の48万に負けてもらい、夏のボーナスで購入してからである。

その後、すっかり慣れ親しんだ平和島での収穫は、金治しをした古伊万里白磁鉢、唐草模様の大鉢、初期伊万里の徳利など、どれも、かなり気にいった逸品ばかり。私たちの家のキャビネットには、そんな収穫品が日に日に増えていった。

そもそも私と家人の骨董コレクションのはじまりは、藍の器の蒐集からだった。つまり、古伊万里や印判のそば猪口などから、少しづつ買い集めたのである。旅行に行っては、その土地の骨董屋さんを巡ったり、ぶらり骨董市を覗いたり…。そんな私たちのコレクションは、同時に、普段使いするための器集めでもあった。

そんな訳で、骨董だけでなく、ローヤルコペンハーゲンの大皿、ボール、ティーポット、ティーカップセット等々を、ボーナスをはたいて買い揃えたこともあった。とにかく、藍の器たちは、でしゃばらず、品が良く、お料理をとっても引き立ててくれるので、もう、しばらくは、無我夢中で蒐めたのだった。

このように、色々とものを蒐めるのが大好きな私たちなのだが、ここで、私たちのコレクションを愉しむ考え方を、少々。それは、とにかく、 自分たちの生活空間を、ナットクした美しいもの、楽しいものたちで埋め尽くすという生活スタイルにあった。

それもマニアックにひとつのテーマにこだわり蒐集するコレクション・ライフではなく、毎日の暮らしの中であれこれ、色々、よろずなものたちを、季節にあわせて、気軽に使ったり、飾ったりすることの方に重点を置いたライフスタイルだった。自分的価値感で選んだ、いっしょに暮らせる愛しいものたちを、極めて私的なこだわり生活の中に、どんどん取り入れていく。これを実践してみると、豊かさとはこういうことだったのかと、
思わず微笑みがこぼれてくるのを覚えるのだった。

ところで、よく骨董の世界では、骨董を所有するということは、一時、時代を預かっていることだなどといわれている。従って、次に欲しいものを所有するために、自分が手放していいものを他の人に譲るという行為は、当たり前のように古くから行なわれてきた行為だった。つまり、整理して、循環するという、環境にやさしいやり方を、骨董のコレクターたちは、幾時代もずっと続けてきていた。必要なものと、必要でないもの。残すものと、循環させるもの。これからは、私たちもそれを検討する機会を、ことある毎に持とうと思っている今日この頃なのである。などと、書かれていた。


お宝ソング 

それでは、この骨董趣味を詞にしたものがあるので、ご披露しよう。

お宝ソング

    作詞:ハマダテツジ

それは去年の 暮れでした
ぶらり覗いた 骨董市で
思わず手にした 伊万里の皿が
宝さがしの はじまりでした
藍(あい)を信じて 鉢から壷へ
募る想いの やるせなさ

いやぁ〜 月に一度の骨董市は
オタク泣かせの 宝の山よ

軽い気持ちの 筈でした 
あちらこちらの 骨董市で
ちょいと声掛け 薀蓄(うんちく)聞けば
それが出会いの 合縁奇縁
夢を信じて 李朝(りちょう)に唐津
捜し求めて どこまでも

いやぁ〜 時代桃山この信楽は
ものにゃ出来ねど ひと目惚れよ

そしてある日の ことでした
いつも出掛ける 骨董市で
思わず見つけた この楽茶碗
宝さがしは 恋愛ゲーム
明日を信じて 真実一路
募る想いで 熱くなる

いやぁ〜 買ってしまおか諦めようか
ここが思案の 分かれ道よ

こうした骨董蒐集時代。これは、これで、楽しい歴史を重ね、Antuque工へと、続いて来たのである…。

そして、この頃、家人をモデルに書こうとしていた物語が、創作ファイルから見つかった。そのキャラクターは、家人と、小田原に来て知り合いになった画家の秀美さんをミックスした感じのものだった。

「カントリー夫人・紘子さんが行く」 

その1 まねっ子カラスの巻

はじめまして。私の名前は、中山紘子(ひろこ)。結婚してから古川から中山へと苗字が変わり、著名なピアニスト中村紘子と一字違いが、ちょっと気になる35歳です。基本的には主婦なのですが、画家としてもマイペースで仕事をしています。2年に1度という割合で個展も開いています。

春のある晴れた日のことです。私は、いつものように家事を終えると、トレードマークの鍔(つば)あり丸帽子を被り、愛犬のジローを連れて、お百姓の政吉おじさんから借り受けた近くの畑、「Hiroko Farm」に、野菜や花の世話をする方々、スケッチに出掛けて行きました。

畑に植えてあるのは、大根やニンジン、キャベツや、菜の花がいっぱい
咲き始めた白菜。それに加えて、ハーブの数々。

ミント、レモンバーム、セージ、ボリジ、そして、上手に冬を越したフェンネル、など、など…。 私が手塩に掛けた、可愛い子供たちが いっぱいでした。

畑の周りには.田圃も多く、大きな川から、分かれ、分かれて、やって来た小川の流れや、農業用の用水が、あっちこっちでサラサラと音をたてていました。水が多いと、必然、水鳥たちも、よくやって来ます。
私は、簡単に畑仕事を済ますと、ジローをFarmに残して、今度は、近くの田の畦をひとつの小川に沿って、今日のスケッチ・ポイントを捜してヒョコヒョコと歩いて行きました。

と、小川の向こうの土手道に、白鷺が一羽小首を傾げて立っていたのです。その姿は、あまりに優雅で美しく、私は持っていたスケッチブックを思わず開くと、その白鷺をスケッチしようと、注意深く観察しはじめました。

天気は上々、気温もポカポカ暖かい。すると、のんびり長閑なその景色の中を、白鷺がゆっくりゆっくり歩き出したのです。(気取った感じが、いかにも白鷺だ)そう思っていると、なんとそこに、突然、カラスが降りて来たのであります。そして、何を思ったのかそのカラス、いきなり白鷺の真似をして、同じように胸を張って、気取った動作で白鷺の後をヒョイヒョイと歩き出したではありませんか。私は、丸い眼鏡の中で、もっとその目を丸くしたのでした。

(こんなことが、起こるんだ)そういえば、確かにカラスは、オウムや九官鳥のように人の言葉も真似をする。(でも、本当にこんなことを、するなんて)私は、すっかり嬉しくなると、その光景を猛然とスケッチブックにしたためはじめたのでした。と、私の頭の中に、実家で浅草のおじいちゃんがよく歌っていた高田浩吉の「白鷺三味線」という歌が湧いて来たのです。

白鷺は
小首かしげて 水の中
わたしと おまえは
エー それそれ そじゃないか
ハ ピーチク パアチク 深い中〜

その歌と、白鷺とカラスの動きが重なって、まるで芝居の当て振りを観ているよう。私は嬉しくなって、歌う口と、描く手を、それは一所懸命動かしました。

白鷺の
羽も濡れます 恋ゆえに
吉原 田圃の
エー それそれ そじゃないか
ハ ピーチク パアチク 春の雨〜



と歌っていた時、突然、白鷺もカラスも、大きな川のある方向へ飛び立って行きました。でも、その時のスケッチを家に持ち帰り、ちょっと挿絵風に、自分も入れ込み、作品に仕立ててみたのです。出来栄えは大満足でした。

(それにしても、カラスのやつ、面白いったらありゃしない)私はそんなことを思いながら、夕食は何にしようかと考えはじめました。多分、主人は今日は東京泊まりで帰って来ないと言って仕事に出て行きました。私たちは、東京にも小さなマンションを持っており、夫は、出版会社勤めをしており、残業も深夜に及ぶことがしばしばでした。

実を言えば、夫の母親が3年ほど前に亡くなって、夫の父が1人でこの町に暮らしていたので、1年ほど前にここに夫と娘と私の家族3人で引っ越して来たのでありました。

この町は、山と海に囲まれた城下町で、気候は温暖、お魚は地のものが店先に並び、肉嫌いの私としては大歓迎だったのであります。近くには温泉もあり、最近では、ドライブがてら、たまに日帰りで温泉に入りに出掛けたりもしています。

「Hiroko Farm」 

私が今、とにかく夢中なのが、最初にも紹介しました「Hiroko Farm」であります。この畑にいると、それはもう幸せ。野菜や花や、飛んで来る鳥や昆虫たちを見ているだけで、もうウキウキとしてくるのでした。

それなのに、この畑を貸してくれている政吉おじさんは、畑のニンジンの葉っぱやパセリに黄アゲハの幼虫などを見つけると、剪定バサミでパチンと切ってしまいます。 私はそれが悲しくて、次から、「あっ、ダメ!」というと、その幼虫を家に持ち帰り、ビンに入れ、ニンジンの葉っぱやパセリを餌にアゲハになるまで飼育するようになりました。



そして、この「Hiroko Farm」の近くの水車小屋の脇に、ステーキが売りものの洋食レストランがありました。ここのコック兼マスターが、ブラッと私の畑にやって来たことがあり、元気に育っているハーブたちを羨ましそうに見ていたので、必要な時は、いつでもご自由にお使いくださいと言ってやりました。
マスターは、それから、ミントやセイジが必要になると、畑にやって来て、必要なだけ摘んで行くようでした。先日は、そのお礼だと言って、手作りのソーセージを持って来てくれました。

 

そう、そう、この畑に来ると、今日は、白鷺とまねっ子カラスに遭遇しましたが、雉なども来るし、時には猿や狸などが現れたりもします。東京の下町生まれの私が、このカントリー・サイドで出会う、楽しいナチュラル・ライフを、私の挿絵入りで、これからも、あれこれと、お話して行こうと思っていますので、皆さま、お付き合いのほど、よろしくお願いね。

というところで、この「まねっ子カラスの巻」は終わっていた。私は、改めてこれを読んで、添削を入れ、そのうち又、続きを書ければなと思っているところである。そう、こんな話を書きたくなる位、私にとっても小田原のカントリー・ライフはとても充実したものだったのだ。


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