ハマダ伝・改作版

作:濱田 哲二


『ハマダ伝・改作版』 その13 目次  

更に、小田原暮らし
夏のある日のこと
水のゆうわく

更に、小田原暮らし 

さて、ウイークデーの小田原への帰宅の割合を星取表にすると、その頃は、2勝3敗といった感じだった。それもバブリーに朝の通勤や、新幹線のある時間内に帰る時は、新幹線の回数券を使い通勤をするようになっていた。

休みの日には、畑に行くのはもちろん、ドライブマップには出ていないような林道に出掛けて行ったり、大雄山や足柄山の麓のうどん茶屋を尋ねたり、箱根まで足を伸ばしたり。カントリー・ライフをエンジョイしていたのだった。

そんな時、今でも印象的なのが、小田原で知り合った鈴木さんというガーデニング好きのご夫婦に教えられて行った林道脇に転がっている大きな檜の切り株拾いだった。
鈴木さんの家では、その切り株をベランダの椅子にしたり、蘭の鉢など植物を置く台にしたりして、とてもおしゃれに使っていた。私たちも切り株を拾ってきて、皮を剥ぐと、鉋(かんな)で表面を削り、やはり鉢物のディスプレイ台などにして利用した。Do it Yourselfの楽しみもいっぱいだった。

そして、生まれ育った小田原で暮らしていると、いろんな時代の思い出がフイに甦ることがあった。例えば、こんな風に―。

私は、日大芸術学部を受ける時に、放送学科だけでなく、何を思ったのか小手調べで、美術学科の油絵科も受験したのである。結果は、これもどうした訳か合格してしまった。でも、画家になる才能などとてもないと油絵科には行かなかった。もちろん、今でも、懸命な選択だったと思っている。その時、課題の提出作品を描きに真鶴に出掛けて行ったことがあったのだが、そのことを思い出す度に、まだ、やはり小学生の頃、親父と海に遊びに行き、その帰りに交通事故に遭ったのをいつも思い出さずにはいられなかった。

夏のある日のこと

それは、夏のある日のことだった。まだ十字町に住んでいた頃だから、小学1年生か2年生の頃で、夏休みの間の出来事だった。少年の私は、親父の自転車の後の荷台に乗って、真鶴の手前の米神の辺りの磯場に銛(モリ)と網など磯遊びの道具を持って出掛けて行った。

その磯場ではカニを追っかけたり、地元ではシッタカという巻貝を獲ったり、泳いだり。シッタカのことを調べてみたら、図鑑では「バテイラ」。ニシキウズガイ科 殻高約40ミリ 房総半島から南に分布。潮間帯の岩礁に生息。美味。とあった。

他に、水中メガネで海中の岩場を覗き、ムラサキウニを探したり、魚を銛で追っかけたり。そうこうしているうちに、親父がワカメが繁茂している岩場を見付け、暫く、そのワカメ獲りに熱中すると、ケッコーな量のワカメを収穫することが出来たのだった。

陽も西に傾き、私たちは海での1日に満足し、又、親父の自転車の後に乗って、真鶴―小田原道を引き返した。この道は、湯河原や熱海、伊豆半島に続く道路として、昔から交通量の多い道だった。確か日曜日だったのだろう、まだマイカーを持っている人など少ない時代だったのに、この日もこの道は混んでいた。早川で、第一国道にぶつかり、東京方面に帰る車は、ここから一国を行くのだった。

私たちの自転車も同じように一国を走り、小田原城の方に入る箱根口という信号だったと思う、ここの信号の手前に、私たちの家に近い路地があったので、親父がそこを曲がろうとした、その瞬間だった。

ドンという衝撃が走り、私と親父は空中に放り出され、コンクリートの地面に叩き付けられていた。と、視界の先に、中型のセダンが止まるのが見えた。
撥ねられたのである。急ブレーキを掛けたセダンから若いサラリーマン風の男が、私たちのところに駆け寄ってきた。「大丈夫ですか!」と親父に蒼い顔で言っているのが聞こえた。

どうやら私は、投げ出されはしたが大したことはなく掠り傷程度のよう。その度合いは判らなかったが、前に倒れている親父の方がダメージは大きかったようだった。それでも、すぐに救急車を呼ばなければならないほどの怪我は免れていたようだった。

不幸中の幸いである。親父は、2人乗りだったせいもあり、気まずそうに立ち上がった。近くにいた人々が寄って来た。皆、口々に事故の状況を話している。2人乗りだったとはいえ、もちろん車の方は前方不注意の謗(そし)りは免れない。運転していた男は、律儀に、済みませんを連発していた。

車に乗っていたのは4人。川崎に会社のあるサラリーマンの仲間で、週末にレンタカーを借りて、1泊で伊豆にドライブ旅行を楽しんだ帰りだと言っていた。親父は彼らの手を借りて自宅に戻り、自転車はその仲間の1人が運んでくれた。親父は運転していた男の人に「大丈夫、病院に行くほどではない」と言い、そう言われた男は、暫く様子をみて大事には至りそうもないことを確認すると、恐縮しながら何かあったらご連絡くださいと言うと、名刺を置いて帰って行った。お袋は、訳があって仕事に出ていていなかった。

その日、私は、交通事故に遭ったという昂ぶりから、なかなか寝付かれなかったのを覚えている。海の中の岩の間に見たウツボの鋭い眼光、磯場にタコを銛で付いて上がって来た男の誇らし気な顔、波間に揺らめく繁茂するワカメ、事故に驚いた親父の顔、大変なことをしてしまったという運転者の顔、その日起きた色々な光景や表情が、私の脳裏を掠め、ドーンという衝撃と、スローモーションでふわっと空中に放り出された驚愕が、幾度も、幾度も、私に襲い掛かって来たのだった。

きっと、私たちには、この時、運良く「死神」が付いていなかったのである。 「アジャラカモクレン、キュウライス、テケレッツのパッ!」だったのである…。

水のゆうわく

そして、事故のことを書いていたら、もう一つ思い出したことがあった。

それは、親父から、「お前は16歳を過ぎるまでは水難の相があると易者に言われたから、水には十分気を付けろ」と事ある毎に言われていたことである。

そんな訳で、「水」のことは何となく気にしていたのだろう、小学生の4,5年の頃、夏休みの自由課題で「水のゆうわく」という紙芝居を創ったことがあった。あの時代は、高度成長期の始まりで、世の中、建築ラッシュに沸いており、日本中の河川で砂利採集が行われ、その採集場所で子供が水遊びをしていて事故に遭 うという記事が新聞によく出たものだった。

父方の親類は、親父の妹が美容院をやっていて、その二番目の息子が、個人でトラックを持ち砂利の運搬業をやっていた。所謂、ジャリトラの運ちゃんである。だから、夏休みになってその親戚に遊びに行くとトラックの助手席に乗せてもらい、砂利採集現場によく行ったものだった。

砂利採集の現場は、ブルドーザーで深く掘られている上に、砂利なので、アリ地獄のような危険さがあった。その採集跡は掘られたそのままに残っていた。だが、川で泳ぐと流れに従って流されて行かなければならないが、砂利採集跡はプールのように泳ぎ安かったので、とても魅力的な場所だった。しかし、水深が深いため、水温が低く、足場がゆるく、ズルズルと水底に引きづり込まれる危険性と相まって、本当に水遊びには危険な場所だったのである。それでも、私は、親には行ってないといいながら、何度か砂利採集跡で泳いだことがあったのだ。

が、ここにも、運良く「死神」はいなかった。重ねて、「アジャラカモクレン、キュウ ライス、テケレッツのパッ!」だったのである…。

私は、そんな知識と体験を基に、夏休みの自由課題として、川で水遊びをする時は、砂利採集跡に行かないようにという紙芝居を創ったのだった。でも、8月もそれこそ31日に慌てて創ったので、当り前だが作品としては碌な出来ではなかった。

もちろん、こうしたいいかげんな性癖はすぐに直る訳もなく、別の年、やはり夏休み最後の日、1日で植物採集をし、まだ、乾かないままの標本を自由研究として提出 し、先生に顰蹙をかったことも思い出される。

その時は、最初、羊歯を採集に出掛けたのだが、羊歯の葉の裏の胞子を蛾か何かの気持ちの悪い昆虫の卵がビッシリと産み付けられているものと勘違いをし、ワッと声を上げ、全部捨てたのを覚えている。あわてて別の植物を取ったのだが、何を集めて来たのやら、新聞紙の間に集めた葉を挟み、アイロンを一生懸命当てて乾 か した愚行も思い出される…。

ところで、小田原といえば、川は酒匂川と早川だった。が、泳ぐ時は、御幸ヶ浜という海水浴場で泳ぐのが普通で、ここには市営のプールがあり、それが、海水のプールだったのが、いかにも小田原らしかった。

交通事故と、水難の相のエピソードは、夏休みの宿題と相まって、今も忘れられない思い出だ。私は、ケッコー、いいかげんな少年だったのだろうか、

小学4年生の時の日記に先生はこんな風に赤字を入れていた。

2月5日

ほうかご曽我君とぼくと田代君と上石君とですもうをやっていた。
すこしたつと山崎君が来て、こんどは5人でやった。
みんなあせでかおがぬれている。4時30分になった。
オルゴールがなった。みんなといっしょにかえった。
日は箱根山にしずもうとしていた。
まるで火事のように赤い太陽が山にしずんでいった。
きゅうによるが来たようにくらくなった。

今日一日はとてもたのしい日だった。
夜は早くねてしまった。

赤字のところは、「もっとよく見て、見たままを書いた方がいいね」と先生の感想が書かれてある。(今、思うに、私は、例えそう見えなくても、比喩として「火事のように赤い太陽、急に夜が来たように暗くなった」 というのは悪くないと思うのだが…)

その数日後―。

2月18日

平原君が今日魚を持ってきてくれた。
どじょうに、わかさぎだ。
もってきてすぐわかさぎは死んでしまった。

 

これに、先生の感想が赤字で、「何だこれでも日記といえるか」とあった。
多分、そうだと思うのだが、これも夏休みの宿題と一緒で、提出日の前日に、やっつけで書いていたのだと思う。それを先生は、見透かしていたのだ。そして、別の日には、「前に浜田君は長い日記を書こうと決めたのに、毎日、短い日記ばかりでほんとになさけないね。君はいつもこんなにあきやすいんだね」とあった。どうやら、そんな少年だったようである…。


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