ハマダ伝・最新版

作:濱田 哲二



『ハマダ伝・最新版』 その17 明治生まれの死

1987年、親父83歳の折、ついに変調が起こった。
最初は自宅での介護だったが、軽い脳梗塞を起こしたのを期に入院を
させることに。病院は、井細田に在った西湘病院というところ。
近くには山王川が流れ、晴れると富士山も見え風光明媚な病院で、
私たちは介護の家政婦さんをお願いし、家人は週2回、私は休日に
親父を見舞うようにしていた。

ここでは、動けなくなった体、特に歩行のリハビリに励んだのであるが、
やはり寄る年波には勝てず、1989年3月14日、親父は85歳で旅立って
行ったのだった。

この死は、正に「明治生まれの日本人の死」だった。
「自叙伝」には、こんな生い立ちが書かれていた。

少年期

日露の風雲急を告げる明治三十七年二月十六日の未明に父濱田誠重の
長男として呱々(ここ)の声をあげたのが小生である。
母イシ二十九歳の折という。
母方は代々鍛冶屋で名字帯刀を許され、齋藤但馬守國重と古い墓石に
刻まれているので、誇りに足る家系であったが、それがどうして貧農の
父と結ばれたかは甚(はなは)だ不思議なところである。

が、聞くところによると、父の曽祖父は荻野の大久保公の家臣で、
藩政改革で磯辺に移住した後は百姓を生業にした。
しかし、その息子の祖父はあまり働き者ではなく生活は貧しかったという。
その祖父の子であるわが父は、貧農ながらも真面目な働き者だったという
ことで、母方の家にその将来を見込まれ、どうやらそれで母と結ばれること
になったということらしい。

幼少時代、小生がどう過ごしたかは余り記憶に残っていないが、悪戯坊主
で玩具を買って与えても三日と持たずに壊してしまったと祖父が云うのを
耳にしているから、相当の悪童だったには違いない。

明治四十三年四月に小学校に入学した。
一年生の時の担任は志村という先生で、よく立たされた記憶があるから、
この頃も悪童だったに相違ないが、学校は好きで病気以外は休まなかった。
二年になってからも悪戯と喧嘩は絶えることがなく、常に素行は下から数え
た方が早かった。

三年の頃より、負けず嫌いの芽が頭を擡(もた)げ、六、七番の成績に不満を
持ち、主席を狙って不断の努力をするようになった。
が、素行が問題なのもあって、主席を得ることは出来なかった。
四年生になると、社会の情勢も理解するようになり、世界という広い視野に
立つようになり、「俺は、狭い日本に満足せず、世界を股に掛けて活躍する
のだ」との大志を抱き、独学でA、B、Cを勉強し始めた。

やがて五年生になると世界地理を学び、ますます世界に飛躍する夢は
膨らんでいった。そして、六年になると、石井善作という先生の歴史の
時間に英傑伝を度々聞かされたこともあり、夏が過ぎ秋の半ばであった、
いよいよ世界雄飛の緒につこうと決意し、出奔を企画したのであった。

世界を股にするには、先ず世界の貿易港横浜に出てそのチャンスを
狙うのが良策だ。よし横浜へ行こう。いかなる艱難辛苦をも克服して
初志を貫徹し、名声を挙げんものをと、或る夜密かに準備をし、翌早暁、
両親の目覚めないうちに家出すべく寝についた。

が、やはり子供だった。朝いつものように起こされて目を開けるともう
六時を過ぎていた。寝坊したのである。驚いて机の下を覗いたら、
昨夜置いたはずの風呂敷包みがないではないか。当惑していると、
母が呼ぶので行ってみると、風呂敷包みを前にして「座りなさい」と
いうので、黙って正座した。

すると、「この包みはどうするのだ」と厳しい糾弾。
しばらく黙秘していたが、更なる糾弾に遂に黙秘も儘ならず、出奔の
弁明を正直に述べた処、それまで厳しかった母の目から涙が溢れた
かと思うと涙声でこう云うのだった。

「お前は濱田の総領(長男)で濱田家を継ぐ相続人である。
父も母もお前の成人をどんなに夢見ているか、親の心子知らずとは
お前のことだ。両親を捨て、家を捨て、自分だけの栄達を望んでいるのか。
そんなことで何で出世が出来る。何のために学校で勉強している。
何のために修身の時間がある。二宮金次郎や頼山陽、孟子などという
人がどんな行いをしたか…。

考は百行の基と昔から云われている。母が云うまでもなく、お前には
判っているはずだ。それでも親を捨てて家出するのか」と諄々
(じゅんじゅん)と諭され、一言の返す言葉もなく項垂(うなだ)れる
ばかりだった。

当時、総領という命運を断ち切ることは想像以上に重いものだった
のである。それからは、抱いていた一切の野望を捨て、学校では勉強、
家に帰れば親の仕事の手伝い、夜は豆ランプの薄暗い光で復習、
予習をして寝につくのが日課となった。

年が明けて三月、尋常科を卒業して、四月からは高等科に進学した。
高等科に進学した者は、約三分の一の十数人でしかなかった。
その内の一人になれたので、その時は親の有難さを心から感謝せず
にはいられなかった。

高等科では、中村正一という校長が修身の時間を担当されていた。
或る時、小生、こんな質問をしたことがあった。「孝行をしたいとは
思っているのだが、それを実行に移せないのは何故でしょうか」と。

すると先生は「それでいいのだ、心ここに至らざれば食うとも味わいなし。
孝養を尽くしたい気さえあれば、必ず不時に顕れるもの。修身の目的は
そこにある」と申された。

そして、「歌を詠み、詩を作るより、田を作れ。何某(なにがし)よりも
金貸しが良し」更に、「働いて減るよりも、懶惰(らいだ)の錆(さび)で
朽ちるが早い」などと、国是の富国強兵の教育を熱心にされたのだった。

大正五年三月、小学校高等科を卒業。中学は家庭の事情で遠い夢で
しかなかったので、四月から青年学校に学んだ。高等科の時から、
漢文が好きだったので、特に青年学校では、論語、日本外史を興味を
持って勉強したのである。

とあった。そして、書道家を志した経緯も書かれていた。

 

昭和十二年の七月、日支事変が勃発したが、まだ対岸の火事の如き感あり。
次第に中国南東部を制圧するに至り、予備軍の必要は在郷軍人の召集と
なり、出生兵の歓送はその度を増すようになると共に、戦死者の報も遠近で
聞かれ始めた。
翼十三年十月、皇軍は遂に漢口を陥(おとしい)れ入城をした。
国民の総てが戦勝気分で旗行列や提灯行列で祝意を表し、町役場では
二階から懸垂幕を下げることになった。
田代町長は、その幕字の「祝 漢口陥落」を私に書けと云う。
が、そんな大字は書いたことがないからと再三辞退したが、失敗したら材料
は厭(いと)わない、何度でも書けというので、止むを得ず承諾し、巾1m、
長さ3mの布地に「祝 漢口陥落」の六字を大書した。

それを見ていた誰もが、良く書けた良く書けたと褒めるので、私も満更でも
ないなと安堵した。そして、その垂れ幕を、墨が乾いた処で役場の二階から
正面入口脇に垂らしてみた。すると拙(まず)いこと拙いこと、欠点だらけで
まともに見ることが出来ない。

これを数多の人々の眼前に晒すのかと思うと、慙愧(ざんき)の念に駆られ
たが、もう後の祭り。後悔と恥辱の苦しい日々が暫く続いたのである。
その間、<せめて人に見せても笑われない字が書けないものか>という
思いに駆られ、それが更に<いや、どうしても立派な字が書きたい>となり、
その思いはますます強くなり<そうだ書道をやろう。本格的に書道を勉強して、
二度とこの不名誉を繰り返すまい>との決心にまで上り詰めていった。
これが、私の書道入門の端緒であった。時に年齢三十四歳。
極めて遅い出発(たびだち)だった。

それより、書道入門の道しるべというべき書道雑誌を取り寄せてみたが
なかなか自分に適したものがなかった。
が、ある時、やはり書道を志す瀬戸万寿雄君から借り受けた「書海」と
いう書道誌にやっと得心を得ることが出来た。
以来、その「書海」誌を定期購買し、勤務から帰ると一途に書の練習に
打ち込んだ。ところが、数ヶ月を過ぎた或る日、突如として大きな壁に
ぶち当たってしまったのである。

その壁というのは、運筆の速度だった。 運筆は、文字の大小によって
速度の遅速があるべきなのにそれが解らない。
竪画、横画、左払い、右払い等、各々速度の変化があって然るべきなのに
その要領が掴めない。例えば、横画一本を引くにも起筆から走筆に移る
には何秒位を要するのかとか。走筆から終筆まで何秒位が合理的である
かとか。そこには必ず基本となるべき運筆の速度がある筈なのに、
まるで解らなかったのである。

更に、料紙の違い、墨の濃淡によっても運筆の遅速を加減すべきは
自然の理と考えられるに、そうした一点一画の基本動作が解る記述が
「書海」誌にも他の書道誌にも見ることが出来なかった。
この基本動作を無視して練習しても上達の道は開けない。
やはり師につくべきだ。そう悟った私は、 丁度その頃、「書海」誌に
大内枝翠先生の自宅教授の広告が出ていたので、麻布の桜田町に
先生を訪ね、入門を果たすことにしたのだった。

そして、昭和十四年五月、大内先生の指導を受ける為、いつものように
先生宅に伺ったところ、今から霞町の松本芳翠先生宅へ出向くので同行
せよというお言葉。一緒に霞町に同行し、大内先生の師である芳翠流の
創始・松本先生に始めてお会いすることとなった。

そこで、私が、自分の書に対する思いを両先生にぶつけると、松本先生
にも大内先生にも私の熱情が通じたのか、その席で、正式に直接松本
先生から芳翠流を師事することを許され、更なる研鑽の道を踏み出すこと
となったのである。

大内枝翠(おおうちしすい)明治32年(1899)生〜昭和57年(1982)7月25日歿  
                      
清水市西久保に生まれる。大正10年(1921)に上京し、深川に書塾を開くと
共に、松本芳翠先生に師事した。が、大正12年の関東大震災で静岡に
転居する。昭和15年の静岡大災で焼失し、麻布桜田町に転居すが、
昭和20年の戦災で三度焼失。後、静岡に転居した。一方、南画に秀で、
山水・四君子を得意とした。 また井上舒庵先生に作詩の指導を受けた。

松本芳翠(まつもと ほうすい)

1893年(明治26年)1月29日、愛媛県越智郡伯方島に生まれる。
16歳で上京、明治薬學校卒業。傍ら書法を加藤芳雲、近藤雪竹、
日下部鳴鶴の諸先生に学ぶ。

大正10年、書海社を創立し機関誌を発行して書道の普及に尽痒する。
篆・隷・楷・行・草・仮名すべての体に長じたが、大正11年29歳で
平和博覧会併催の書道展に紺紙金泥の細楷正気歌で金賞を受賞して
以来、「楷書の芳翠」と世に名を馳せた。
その楷書は欧陽詢の九成宮をベースに、晩年は北魏の鄭道昭を取り入れ、
方にして円、背勢にして向勢、秀麗端正な中に高い完成度を示し、
一世を風靡した。
また、行書の格調の高さを、かつてある人は「昭和の文徴明」と評した。
草書は書譜をベースとして華麗である。書論では、書譜における「節筆論」
で知られる。漢詩もよくした。

昭和3年戊辰書道会を創立、昭和6年には泰東書道院の創立に尽力し、
昭和6年新たに東方書道会を興した。戦後は日展審査員となり、昭和
29年芸術選奨文部大臣賞、昭和34年日本芸術院賞を受賞、昭和46年
日本芸術院会員に推された。財団法人書海社理事長、日展参与。
著書に『書道入門』『臨池六十年』などがある。
1971年(昭和46年)12月16日、歿する。79歳。

 

光陰矢の如し。歳月の流るることは己を意識することを与えざる如く、
只管学書に没頭した。そんな、ある日、芳翠先生宅にお伺いした折、
「勤めがあるので、学書に充分な時間をとれない。
忙しいので遂」と言い訳がましく話たことがあった。
すると、先生の言葉が、鋭い針の如く私の心を突き刺したのだった。
「忙しいのは誰も同じこと。暇なのは、老人か子供だけだ。
忙しいから、忙しいからと云っていたなら、書道など当の昔に消滅
してしまっている。忙しい中に研鑽してこそ書道の真の尊さがあるのだ。
時間は作ればある」この先生の言葉には、二の句が突けなかった。
正に、仰る通り、ぐうの音も出なかった。

この日、先生のお宅から帰る道すがら、私はずっとこのことを考え続けた。
<一日は二十四時間。これを二十五時間、二十六時間にすることは
いかなる鬼人でも不可能だ。だからこそ二十四時間の中から作り出す時間、
これが本当の時間なのだ。先生も人なら俺も人、人のやることなら俺もやれ
ないことはない>と、思うに至ったのだった。

そう思うと、翌日から十二時前には寝につかず、朝は家内と同時に起きる
ことにした。すると、朝一時間、夜二時間、一日計三時間を作り出すことが
出来た。これを学書の時間と定め、必行として継続することにした。

厳寒の折には、室内で硯の水が凍り、筆先に氷柱となり、その氷柱に息を
吹きかけ解かしながら練習したことも再三あった。
右手は筆を持っているのでよかったが、左手はただ紙を圧しているだけ
なので、冷たさが度を超し感覚を失うこともあった。
が、初志を貫徹する信念は遂に挫折しなかった。

こうした努力が報い、向原の石田家から戦死者の墓碑の揮毫を依頼され、
初めてこれに応じ完成させるに至るまでになった。
そして、その出来栄えは多くの人に賞讃され、念願の書家としての基盤を
築くことが出来たのである。

 

この頃、日支事変は、益々拡大して北支より南支一帯に跨り、いつ動員令
が来るかの毎日となった。そして、心の準備をして待つに昭和十六年十月、
遂に召集が来て山北より勇躍応召、横須賀重砲兵連隊に入隊した。

十一月三日、城ヶ島砲台の守備につく為、現地に出発。
仮兵舎に装備を解き、翌日より格納解除、射撃準備を命ぜられたが、
自分は能筆の故を以って中隊本部付となり事務担当となったのだった。
十一月二十七、八の両日は、実弾射撃実施。東京湾要塞守備の任に就いた。
越えて十二月八日、真珠湾攻撃の壮挙ありて、第二次世界大戦の火蓋は
切って落とされ、日米戦争に突入し、国家興亡の岐路に立つこととなった
のである。

こうした非常時ではあったが、いつ敵襲に果つるやも知れぬが、
それまでは学書は続けんことを決意。すると、この心意気は連隊長にも通じ、
下士官以上に夜間習字教育を命ぜられたり、戦時中なれども何回か東京
の展覧会参観の便を与えられたりもしたのだった。
そんな訳で、これすべて学書の賜と書の道を志したことに喜びと感謝の念
をますます深め、更なる書の研鑽にこれ努めたのだった。

そして、明くる十七年九月、わが隊に陣中叙勲があった。
自分も下士官の列に加わり叙勲者の一人として発表される予定だった。
が、これを辞退することとなったのである。
それは、私が本部事務に携わっているという理由からだった。
何となく得心がいかないものもあったのだが、仕方のないことと思っていた
矢先のこと、何と、その叙勲を辞退したばかりに幸運が訪れたのである。

叙勲をした者はそのまま兵役を続けたのだが、叙勲を逃した私は、
十月除隊の仲間に加わることが出来、満一ヵ年で無事除隊することが
出来たのである。この時ほど、人間の幸不幸は、万事塞翁が馬である
ことを痛感したことはなかった。やはり、除隊は内心本当に嬉しかった。

とあった。明治に生まれ、太平洋戦争を経験し、戦後の混乱期を生き、
書道家としての人生を生きた親父の自叙伝は、結構、波乱万丈で読み
応えがあった。

が、角度を変え、親父の実の弟(溶接工として座間キャンプに勤め、
休みには百姓をやっていた)の伯父さんに言わせれば、親父は、
総領なのに結局、家を捨て親と畑を自分に押し付け、やりたいことを
やり好き勝手に生きた道楽兄貴という評価だった。

ま、芸術を志す者とは破綻者と言われても仕方のない側面も持って
いるもの。伯父さんには、身内として許せないことが数多あったような
のだが、そこはそれ、血を分けた兄弟、切にお許しあれと思うところ
である…。


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