ハマダ伝・改作版

作:濱田 哲二



『ハマダ伝・改作版』 その16 目次  

最後の小田原暮らし  
弓矢事件
三平(みひら)の悦ちゃん

最後の小田原暮らし 

濱田 茂、1989年3月14日没、享年85歳。ということで親父を送った私たち家族は、当然、この小田原の家が終(つい)の住処(すみか)だと思っていた。それなのに、昔、一時期、確か小田原に新幹線が停まることが決まった頃、私の家の周りの高台全体が新たな都市計画の対象になり、新幹線側の駅舎の新築に伴い、その高台の全部を平地にするとか、駅前のロータリーからの道路が出来るとかの話が大いに盛り上がったことがあった。が、その話は、市の予算計上に問題があって、何となく頓挫したかたちになっていた。

それがである、荻窪の丘陵に1991年、関東学院大学が法学部小田原キャンパスを開設することに伴い、突然、新幹線側駅前から荻窪に抜ける道路の工事計画が具体化したのであった。

そのために立ち退きを迫られた家が、わが家を含め5軒位あったろうか、市が代替地の候補を持って来たり、その代替地を見に行ったりという落ち着かない日々が始まったのだった。すると、道路用地に指定された近所の家々は、呆れるほど早く移転を
決意し、1軒、又、1軒と歯が抜けるように市に土地を売却し、私の家の周りはアッという間に空地になってしまったのである。

そんな折、私は、家人の友だちの綾さんの八ヶ岳の別荘を設計した戸澤さんという建築家に出会ったのだった。戸澤さんは、現在、 私たちが住む4階建ての梅里1・8・8ビルの設計者で、3階に空きスペースがあるので、そこに移って来ないかという熱心な誘いを受けるようになっていた。

そこで私たちは、小田原に代替地を探すのと平衡して、東京に戻る選択肢も検討し始めたのである。その間には、大磯の山の中にあったとある物件が気に入り、殆ど契約というところまでいったこともあった。が、その土地の不便さに礑(はた)と気づき、間一髪、契約をキャンセル。

然るに、市の担当部署が持ってくる小田原の代替地は、現在の場所と比べると、何処も見劣りし、気に入った物件はひとつもなかった。そこで、遂に私たちは小田原に住むことを諦め、再び東京へ戻ることを決意したのだった。

それからは、梅里の3階部分の設計計画をチェックし、小田原の家の整理を始めた。例えば、親父の書道関係の蔵書を市の図書館に寄贈したり、東京に持っていく家財をセグメントしたりという忙しい日々が続いた。そして、それとは別に、私は、親父の書道門下の方々に声を掛け、「無佛庵・濱田如月の遺墨展」を計画したのだった。

後から考えると、実は、この遺墨展の開催が、やがて私をギャラリー開設に走らせる潜在的な切っ掛けになったのかも知れなかった。

この頃、ちょうど娘の高校受験が重なった。東京に戻ると決めたのに小田原の高校に入った場合は、小学生の時のように、又、転校ということになるということもあったので、(もちろん娘の希望を一番に考えた上で)、小田原からも東京からも通えるという立地も意識して玉川学園を受験することにしたのだった。この玉川学園には運良く合格。最後の小田原暮らしと重なって、始の高校生活も始まったのである。

引越しの日が、日、1日、1日と迫っていた。わが家の菩提寺は小田原にあるので、この小田原に彼岸や盆暮れに来ることはあっても、多分、もう二度とこの地で住むことはないと思われる小田原での最後の日々だったので、私たち家族は、そんな1日、1日を、大切に、それは愛しい思いで過ごしたのだった。

弓矢事件 

そんな時、私は、幼年の頃過ごした、お花畑(現在、南町)でのこと、御幸の浜での海水浴こと、小、中、高まで過ごした小田原での想い出をあれこれと思っていたら、フイに、弓矢事件と、三平(みひら)の悦ちゃんのことが懐かしく甦って来た。


まずは、弓矢事件。これにはお父さんが鍼灸師の後藤浮子ちゃんという幼馴染のお母さんが重要な役割を果たしてくれた事件だった。

そう、どういう訳か、私が幼稚園に通っていた頃、まだあちこちに点在していた雑草の生い茂る空地では手づくりの弓矢で遊ぶのがとても流行っていた。子供たちは太めの矢竹を切ってテングスを張り弓を作り、細目の矢竹の先に釘(くぎ)を鏃(やじり)代わりに付け弓矢ごっこに明け暮れていたのだ。

その日も、自宅近くの空地では、私を始め、近所の子供たちが弓矢ごっこである。私も親父に手伝って作ってもらった弓矢を持って、その空地で遊んでいた。すると、今思えば高校生位の学生がやって来たかと思うと、何を血迷ったのか本物の弓をその広場で引き始めたのである。

私の顔面に衝撃が走ったのは、それから間もなくだった。その学生が放った弓が、私の顔面を襲ったのである。私は目の前が真っ暗になり、その場に転倒した。そして、私の周りに人が集まって来る気配を感じながら、私の意識は遠のいていった。

気がつくと私は、親父に抱かかえられ赤塚医院に連れて行かれたようだった。空地で倒れた時、どうやらそこを通り掛った後藤浮子ちゃんのお母さんが、私を抱いて家まで運んでくれたようだった。私は怪我のショックで寒気を覚えていた。が、矢は幸運にも刺さらなく、目の横を鼻を掠って行ったようだった。「てっちゃんの顔が血だらけで、小母ちゃん驚いちゃたわ」と何度も浮子ちゃんのお母さんが言っていたのを今でもはっきりと記憶している。

この事故で矢の当たり所が悪かったら、私は独眼流正宗である。史実では正宗の失明は天然痘によるものらしいが、その後、私が観た中村錦之助主演の東映時代劇「独眼流正宗」では、矢に射られて片目になるシナリオだった。その映画を観た時、私は、又、この弓矢事件を思い出さずにはいられなかったことを覚えている。ま、擦過傷でホントに幸運だった。

私が怪我をした夜、その矢を放った学生と親が謝罪にやって来た。親父は怒り心頭だったようだが、それを押さえ冷静に対応していたようだった。その学生は、近所の菓子屋のドラ息子だった。

次の三平(みひら)の悦ちゃんの話というのは、こんな思い出だった。

三平(みひら)の悦ちゃん 

三平の悦ちゃんは、国道に面して老舗ういろうの近くの対面にあった、三平(さんぺい)モータースというオートバイ屋の一人息子だった。私の通っていた花園幼稚園の同級生で、悦ちゃん一人だけが、いつも品のいいお婆ちゃんと一緒に通園していた。お婆ちゃんは、薄い藤色の入ったレンズを入れた金縁目がねを掛けていたのが印象的だった。

その頃、三平(さんぺい)モータースは、時流に乗っていたのか頗る景気がいいようだった。悦ちゃんとは、一人っ子どうしということもあり、とても仲良しだった。小学生になってからもよく悦ちゃんの家に遊びに行った。悦ちゃんは、私のことをてっちゃんと呼ばずに、はまだクンと呼んだ。悦ちゃんの家には、まだ当然うちにはないテレビジョンがあった。もちろん力道山とルーテーズの試合を見せてもらったし、名犬リンチンチンや、ラッシー、ローハイドも見せてもらった。そして、悦ちゃんは、野球が上手かった。お金持ちの息子だから、グローブはもちろん、キャッチャー・ミットやファースト・ミットも
持っていた。

そんな悦ちゃんの家に遊びに行きテレビを見せてもらうのは、 当然、夕飯時になる。すると、悦ちゃんのお母さんは、時々、近くの食堂から出前を取ってくれるのだった。
その頃のわが家では外食はおろか、出前などよっぽどのことでもなければ頼むことなどなかった。まだ、どこの家も貧しい時代だったのだ。

ある時、悦ちゃんのお母さんは、私にポークソテーを取ってくれた。その頃の私には、ポークソテーは、まるでビーフステーキだった。肉を食べるといえば、大概が細切れかミンチ肉だ。それがポークソテーである。肉の塊を食べさせてもらったという衝撃と、確か、ナイフとフォークを使って食べた衝撃が、しばらくは私の心の中に残ったままだった。

悦ちゃんの家には、もちろん電蓄もあった。私は、そこで平尾 昌晃の「星は何でも知っている」を何度も何度も聴かせてもらったのを思い出す。そして、何と言っても、圧巻は、小田原城天守閣の下にあった市民球場で三平モータースの主催で開かれたプロレス興行だった。メイン・イベントは、力道山と豊登組VS.ルーテーズとオルテガ組によるタッグマッチ。夏のことで、リンクを照らす照明に蝉が飛び込んできて激しく鳴いた。試合は子供ごころにも本気じゃないのが良く分かった。地方巡業の最たるもので、結果は引き分け。それでも、生・力道山は、子供の私を興奮させてあまりあるものがあった。

 

そんな悦ちゃんとは、小学生の高学年になるといつしか疎遠になっていった。三平モータースもやがてその店を閉じてしまった。どうしてなのか詳しいことは分からなかった。それにしても、キャッチボールの時の悦ちゃんのストレートは恐ろしく速く、プロ野球にだって行けそうだと私は思っていた。

そんな記憶がいっぱい詰まった小田原を引き払ったのは、1991年(平成3年)のこと。 その日から小田原は、もう二度と住むことのない故郷となったのだった。

帰郷

 作詞:ハマダテツジ

彼岸花の咲くころ
ふるさとに帰る
独りぶらりと 海に行く
港には 灯台
帰る漁船の 波しぶき
あぁ 岬の先に流れ雲
人生これから 風まかせ

彼岸花の咲くころ
ふるさとに思う
今はどうして いるのだろう
初恋の あのひと
過ぎた季節は 走馬灯
あぁ 昔を偲ぶ城の跡
人生これから 風まかせ

彼岸花の咲くころ
ふるさとを歩く
色づきかけた 里の山
あぜ道に せせらぎ
落葉踏みしめ 秋の中
あぁ 沈む夕日が美しい
人生これから 風まかせ


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