ハマダ伝・最新版

作:濱田 哲二



『ハマダ伝・最新版』 その19 いよいよ梅里の住人に

2009年(平成21年)5月24日(日)。
私たちが住む1・8・8ビルの4階に脚本家・作家の筒井ともみさん、
写真家の渡辺誠さんが引っ越してこられたのを機に、編集兼ライターの
浜美雪さんの提案で「けやきまつり」という催しをギャラリー工【こう】を
メイン会場にして行った。

欅の新緑が美しい5月末の日曜日、当日は、雨模様の天候にも関わらず
100人を超す方々にお集まりいただいた。実は24年程前、私たちが、
この建物に移り住むことを決めた大きな理由に、わが3階の窓外に広がる
この欅の景観があった。そう私たち家族は、最初にまだコンクリートの箱
だけだった3階に入った時、都会にありながら、恰も木の上に建てられた
小屋に居るような風情にすっかり魅了されてしまったのである。
所謂、一目惚れだった。

コンクリートの箱だった頃の3階
パノラマで広がる欅
内装が始まった頃の3階
6分ほど出来たわが家を見学に

そんな私たちが、相模の国・小田原から新高円寺(杉並区梅里)に
引っ越して来たのは、1991年(平成3年)3月の末のこと。
引越しラクラク・パックというやつで、私が会社に出ている間に荷物は
トラックに積み込まれ梅里に届き、荷下ろしまでは業者がやってくれて
おり、後は、自分たちでゆっくり収納すればいいだけになっていた。

その日、私が会杜から新居に帰って来たのは、夕刻6時を少し廻った
頃だった。このビルのオーナーで、建築家の戸沢さんの大きな体が、
まだ片付けきれていない荷物の中を行ったり来たリしていた。
その度に、手伝ってくれている設計事務所の若手に的確な指示が飛ぶ。
どうやら戸沢さんは、まずは備え付けの家具や収納棚に収納するだけ
収納してしまい、片付けは後でゆっくリやればいいという段取りのよう
だった。とにかく今日は、早く引っ越しパーティーに移ろうという目論み
であるらしい…。

「ただいま」
と私が声を掛けると、
「あら、お帰リなさい」
弾んだ声で、家人が応えた。
「それでも随分と片付いたね」
「そうでしょ、事務所の皆さんたちが一生懸命お手伝いしてくれたんで…」
「こっちもプレゼン(テーション)うまくいったよ。明日は有休が取れそうだ」
本当は今日休暇を取って引っ越しを手伝いたかったのだが、某社のCM
の企画プレゼンテーションがあったので、休む訳にはいかなかったのだ。
「パパ、お帰リ」
と娘がやって来た。
「ラッキーがね、さっきちょっと胃液を吐いたの。引っ越しで少しナーバスに
なっているみたい」
「そうか、ラッキーのやつ、きっと来る人来る人誰にでもフンフンフンフンと
お愛想を使っているから神経性胃炎にでもなったんだろう」
「犬って飼い主に似るっていうけど本当ね。パパみたいにすぐおべっかを
使うんだから」
「余計なこといわないで、早く自分の部屋片付けちまえ…」
娘はペロッと舌を出すと、私の前を離れていった。
「やあ、テッちゃん、お帰り」
と戸沢さんがやって来た。
「済みません、何から何まで…」
そういえば、小田原の家のことに始まり、この家のことはもちろん、
東京に住むための面倒なことはみんなこの戸沢さん任せだった。

戸沢正法。当時55歳。帝国ホテルや自由学園を設計したライトの
孫弟子に当たる 建築家で、市井にあってなかなか得難い才能の
建築家だった。彼を最初に私たちに紹介してくれたのは、前にも
書いたかも知れないが、綾さんという家人の友だちで、戸沢さんに
八ケ岳の別荘を建ててもらった人である。

小田原の家が都市計画で立ち退きを迫られた頃紹介され、
そのまま市との折衝事や、新居の設計施工、銀行と折衝等々、
そっくりお願いしてしまったという間柄だった。
つまリ私とはとても波長のあう人とでもいうのだろうか、
彼の所有するビルの3階部分を譲リ受け、とうとう今日ここに
引っ越して来たのである。

「片付けの方も先が見えて来たんで、そろそろ歓迎会に取リかかリますかな」
と戸沢さんが言った。
その時、内線のプップップッという呼び出し音がして、私が受話器を取ると、
それは4階からの、歓迎会の準備が整ったという知らせだった。
戸沢さんのお宅では、奥さんも建築家で、他に、わが娘よリちょっと年上の、
2人の娘さんがいた。
「どうやら準傭もできたようだし今日はこの辺で切り上げて一杯いきましょう」
と戸沢さんが言った。
「それじゃあ、お言葉に甘えまして」
家に帰って来てまだ引っ越しの荷物にも触っていないというのに、図々しくも
すぐその申し出に従ってしまう私だった。

4階におじゃますると、戸沢家自慢のウエグナーのテーブルの上には、
裏のお寿司屋からとった刺身の盛リ合わせを中心に、ビールと一升瓶の
大吟醸、更に、飲み助好みの酒肴が、土ものの器に綺麗に盛リ付けられ、
私たちを待っていた。
「済みません、こんなことまでしていただいて」
私が恐縮しながら、奥さんに言った。
「どういたしまして。戸沢が宴会好きなだけですから…」
奥さんはそう言うと、カラカラと笑った。

4階の窓から見る表の大欅は、3階からの眺めとはまた違った趣きだった。
地番をそのままビルの名前にしたこのビルは、コンクリートの打ち放しで、
1階に駐車スペースと、戸沢設計事務所。二階は貸し事務所で、戸沢さん
の後輩の建築家たちが集まったアトリエOAKという名の、やはり設計事務所
になっていた。そして、3階、4階は住宅で、私たちと、戸沢家が、それぞれ
居住しているのだった。

「4階から見る欅は、また違いますね」
私が奥さんに言った。
「そう4階は、枝の先端を見る感じになるから、3階さんの方がいい枝振リを
楽しめるんじゃないかな」
奥さんが応えた。
と、そうこうしてるうちに、戸沢設計事務所やアトリエOAKのスタッフの
みんなが、ぞろぞろと4階に上がって来た。
更にその後を、私の家族と、戸沢さん、ラッキーも吠えながら喜び勇んで
やって来た。
4階の賑やかさが、突然ピークに達した。
そして、飲み、且つ、談笑し、楽しい時は、あっという間に過ぎ、やがて、
その歓迎会は23時を廻った頃、お開きということになったのだった。

その時、一杯機嫌の私は、引っ越しの後片付けもしないままいきなリ
打ち上げにだけ参加した後ろめたさなど、まるで他人のことのように
忘れていた。そんな身勝手な私なのに、戸沢さんが優しい声で言った。

「それじやあ下に降リてテッちゃんには、お風呂に入っていただこうかな」
「えつ、風呂にですか?」
「そう一番風呂です。新しい自宅に引っ越して来たオーナーさんに、
一番風呂に入っていただく。そこまでやるのが戸沢流の引っ越し
なんですよ」
「………」

私は言葉もなく、なるほどと感じ入っていた。どうやらそれは、
新居をオーナーに引き渡すに際しての、戸沢さんの粋な計らいというか
演出であるらしい。
その新しい風呂は、簡単なボタン操作で湯の温度設定から追い炊き
までできるタイプだったので、歓迎会の間に下に降りてきた戸沢さんが、
試運転を兼ねて沸かしておいてくれたようだった。
「新居の一番風呂、これに入るのが家長である男の特権という奴ですよ」
と言いながら戸沢さんは私に風呂の操作を簡単に説明し、湯かげんを
確認すると、
「さあ、さっそく入ったリ、入ったリ」
と嬉しそうに私を促したのだった。

脱衣所で服を脱いだ私は、その一番風呂にゆっくリと躰を沈めた。
熱くもなく、緩くもななく、それは、ちようど良い湯加減だった。
私は卸したての白いタオルで顔をプルンとひとなですると、
お腹の底からフーツと大きな息をひとつ気持ちよく吐いた。
「どうです湯加減は?」
少しして、戸沢さんの声がバスルームのドアの向こうから聞こえた。
「ええ、最高です」
私の声が、バスルームに弾んで響いた。
「そリやあよかった。じゃあごゆっくリ」
もう一度、戸沢さんが言った。
湯気の向こうにそんな声を聞きながら、私はマンションの風呂にしては
とても贅沢な広さに、大いなる満足を感じていた。
白いいタイルと、白い浴槽。卸し立ての檜の湯桶も、それは良い匂いがする。
たっぷリの湯にゆったりと浸かり、それからレモンの香リのする石鹸で、
ゆっくリと一日の汗を流した。正に、極楽、極楽…。

これが、梅里の住人になった、第1日目の出来事だったのである。

この頃、私たち家族は、この梅里暮らしにとても満足をしており、
転居案内には、こんなことが書かれていた。

ご無沙汰いたしております。
多少のんびりの感はございますが、
改めて新しい住まいのご案内をさせていただきます。
町名は、梅里。豊かな自然の小田原も捨てがたいものでしたが、
山の手の下町といった風情のこの町、結構、本気で気に入っています。
近くに「正直屋」などというおいしい手づくリのお豆腐屋があったリ、
「幸寿司」というお手頃な寿司屋さんと知リ合ったり、
舶来の酒の安売リ店を見つけたリ、高円寺の暮らしもなかなかのもの
と悦にいっております。
是非、一度、皆さまでお遊びにお立ち寄りください。
青梅街道から一路地入った大きな欅のある家(ビル)です。

そう、この梅里にやってきた頃は、特に縦・長屋付き合いというか、
戸沢家との行ったり来たりがそれは頻繁だった。
何かといえば内線電話が鳴り、すぐに酒盛りとなった。
そんな頃、夏休みに入ると娘は、学校が毎年企画する短期の交換留学
プログラム、ドイツ・ヨーロッパ・ホームステイの旅へ仲間たちと
旅立っていった。3週間の予定だった。

そんな金曜の夜のことである。
気紛れな戸沢さんの提案で、私たちは突然、蓼科へ行くことになった。
蓼科山荘という、三沢さんの卒業した大学の建築家グループが所有
する会員制の山荘へ、寝具の入れ替えに行くことになったので、是非、
私たちも案内したいということだった。
私たちは戸沢さんから建築誌でその山荘の佇まいを見せられていたので、
一も二もなく賛成し、ご一緒させていただくことになった。
戸沢さんご夫妻の乗るランチャーというイタリア車に先導され、私たちの
ジェミニZZ(ISUZZはマッキャンの得意先だったので、社員は率先
してジェミニに乗るようにというようなお達しもあり、社員優遇販売を
利用して購入したものである)は、ラッキーも乗せて首都高遼から中央
高速に入って行った。
山荘には一足先に戸沢設計事務所の安藤さんが行っていて、色々と
私たちが行くまでに準備をしておいてくれるということだった。

「始の奴、ちゃんとやってるかな?」
と私が、運転席の家人に言った。
「大丈夫でしょ…」
と家人が応えた。
さっきからラッキーが後の座席で、少し興奮気味に吠え続けていた。
「うるさいぞ、ラッキー」
私は大きな声で言った。一瞬、静まるが、ラッキーはまた吠え始める。
「ラッキー!」
「嬉しくて輿奮してるのよ、暫らくは仕方ないわ」
「そうだな」
ラッキーを車に乗せると、それはいつものことだった。
私はのど飴の袋から飴を二つ取リ出すと家人に一つ渡し、
自分も口の中に放りこんだ。

♪街の灯がやがてまたたきだす
二人して流星になったみたい〜

とユーミンが歌った中央フリーウェイを、今はもう、そんなロマンチック
で若やいだ気分の欠片(かけら)もなく、私たちはひた走っていた。
否、少しあったのかも?知れない。
「蓼科なんて、あれ以来かな?」
そんな台詞が、私の口を衝いて出たのだから…。
「そうね、あれ以来かもね…」
それは、私たちが結婚する切っ掛けとなった、小旅行のことだった。
前にも書いたが、まだ私と家人が東銀座にあった南北社にいた頃の話で、
確かその時のメンバーは、私の大学時代の仲間二人と、家人と、女の子が
もう一入、それに私。しめて5人で出掛けた1泊2日のドライブ旅行の
ことだった。

「秋だったよな」
「秋だった」
考えてみれば、あれはもうふた昔ほども前の話である。
「早いもんだな、月日が経つのって…」
「始がもう高校生なんだもん。それも今、ドイツに行ってるなんて、
あの頃のことを思ったらなんか嘘みたい…」
そんなことを話しながら、家人は先導する戸沢さんの車の後を付いて行った。
これも、以前書いたが、家人が車の免許を取ったのは、私の母が他界し、
独リになった父のために東京を離れて小田原の実家へ移る1年ほど前のこと
である。その頃、独り暮らしの父を尋ねるのに、車があった方が便利なので、
無免許だった私は、家人に免許の取得を頼んだのだった。
適性があったのか、家人の運転センスはなかなかのもので、私は安心して
助手席で踏ん反リ返っていられた。

「俺も免許にチャレンジするかな?」
私がボソッと言った。
「やってみなさいよ、最近はオートマ・コースも出来たから…」
「考えてみるよ」
私はそう言うと今度はガムを噛み始めた。

(20年経つど何婚式というのだろうか?)私は考えるともなく、
そんなことを思いながら、家人と結婚をして最初に住んだ高井戸の
家のことを思い出していた。
その借家は、結婚してすぐ、蓼科にも一緒に行った大学の同級生
ユウジが住んでいた後を、彼の口利きで引き継いで借りたものだった。
首都高速の出口の近くでかなリ大きなキャベツ畑の脇に建っていた
鉄骨造リの家で、冬はとても底冷えがした。
金がなくて、スランプで、しかもその上、子供が出来たことを打ち明け
られ、途方に暮れながら、駄目でも何でも私は親父になるしかなかった
頃のことである。

きっとその頃の家人は、自分が母親になることを意識すると、
私以上にもっと不安だったのだろうと思った…。
勝手な話だが、そんな彼女の気持ちを斟酌してやれるゆとリなど、
その頃の私にはまるでなかったような気がする。
月が満ち、家人は始のことを、実家の姉たちが皆そこで出産したという、
池之端の産院で無事出産した。
その産院は不忍池の近くで、下町の産院らしく畳敷きの産室だったのを
覚えている。暫く、谷中の実家で産後を過ごした家人が高井戸に帰って
来たのは、夏の始めだった。
もう一つの生命、それは私にとって、とても不思議な存在だった。
が、やがてその存在は少しずつ、私を大人にし、人並みの社会人に
していったのである。

二度ほど休憩し、蓼科のその山荘に着いたのは、零時を30分ほど
廻った頃だった。
一足先に到着していた安藤さんが、私たちのことを迎えに出てくれた。
舗装道路から左に逸れて、山の勾配を懐中電灯で足許を照らしながら
降りて行くと、建築誌にあったその山荘が姿を現した。

「なるほど、素敵な山荘ですね」
開口一番、私が言った。
「明日、明るくなってから周リの景色を見ると、きっともう一度感激を
新たにすると思いますよ」
「そうでしょうね」
「それじゃあ、安ちゃんも待ち草臥れたろうから、さっそく酒盛リと
いきますか…。ところで安ちゃん、例の馬刺しはちゃんと手に
入れられたかい?」
「はい、いつもの奴が…」
「そうそう、こいつで一杯やるのが応えられんのですよ」
戸沢さんはそう言って、馬肉のブロックをこれだこれだという風に
確かめると、奥さんに渡した。
と、奥さんが、それをキッチンで切っている時だった。
突然、狙い済ましたようにスライスした馬肉の何枚かにラッキーの
奴が齧り付いたのだった。もう、その素早さといったらなかった。
「ラッキー!」
そう言った時には、数編の肉はもうラッキーの胃袋に納まっていた。
「速かったねえ…」
奥さんがそう言うと、皆は大きな声で一斉に笑った。
ケロッとした顔でラッキーが私たちを見ていた。
私は、彼の頭を一つ思い切りピタンと殴った。
が、もう後の祭りだった。

 

まもなく夜明けという頃―。
私たちは安藤さんが準備しておいてくれた、サウナに入ることになった。
サウナ小舎から、白々明けの空を見ながら飲む缶ビールは、
なかなか乙なものだった。
「谷側の向こうには車山、霧が峰、美が原、北アルプスが一望なんですよ」
と戸沢さんが言った。
「山側のテラスも酒落ていますね」
私が言うと、それに応えて戸沢さんが、
「これはですね、建物の床と傾斜地とのつながりをしっかりとつけて、
大地との一体感を心理的につくリだしている設計でしてね」
「なるほど…」
「そして床を高くしてあるのは、見晴らしをよくするのと、冬山に埋もれ
ないようにするためなんです。単純で開放的な平面にしたのは、建物の
存在感を希薄にし、自然の中にいる感じを強くする意図なんですよ」
「暖炉もいいですね」
「いいでしょう。暖炉の前の床は一段下げてレンガ敷きにしてあるでしょ、
そして板状のを框(かまち)を廻らして。これは腰を掛けて火にあたるも
よし、またここにグラスや皿を置いて一杯やるもよし、つまリ、囲炉裏が
もっている性格とまったく同じようにしたんですよ」
「モダンな民家風…とでも言うんですかね」
「その通り」
と言って戸沢さんはビールを飲んだ。
私の躰から、一斉に汗が吹き出し始めた。
その時、澄んだ鳥の声が、落葉松の向こうから聞こえてきた。

こうした体験は、あの頃の私にとって、なかなかのカルチャー・ショックだった。
この山荘は、「タテシナクラブ山荘」といい、戸沢さんの師、建築家・武藤章の
1965年の作品。今は、どうなっているのか、とても興味のあるところである。


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