作:濱田 哲二 |
『ハマダ伝・改作版』 その5 目次 |
マッキャン神保町 カルチャー・ショック 日宣美のこと 「ビニエット」という手法 1974年(昭和49年) |
マッキャン神保町 |
私は、マッキャンに入ると、コカ・コーラの広告を担当していた田端グループに配属された。
その頃の、マッキャンのことを高平哲郎氏が、晶文社から出している「ぼくたちの七十年代」という本に書いている。私はその本のブックレビューを書いていた。
さっそく、それからご紹介しようと思う。
◇書名 ぼくたちの七十年代 「あの頃も、これからも、七十年代は宝島」 何を隠そう、著者の高平さんがこの本で書いている外資系の広告代理店を辞めた後、彼がいなくなった同じクリエイティブチームで後釜のコピーライターとして働くことになったのが、実は、この私なのであります。ですから、著者と私は、広告会社ではすれ違い。その後、何かの折に挨拶を交わしたことはありますが、今だに作者と読者の間柄以上にはなっておりません。歳は彼がひとつ上、でも私が早生まれのため同学年です。そんなご縁で、彼の書くものに興味を持ち、ケッコー嵌っているひとりなの ですから、私にとって、この七十年代という時代には格別な思いがあるのです。そして、この七十年代を、私たち団塊の世代が懐かしむばかりではなく、むしろ若いひとたちに研究してもらいたいと思っているのです。それも、特に、クリエイティブに興味を持っている若いクリエイターたちに、ぜひ、読んでもらいたい一冊なのです。 コピーライター、雑誌編集者、放送作家、演出家として、七十年代サブカルチャーの生まれる現場でキラキラ輝いていた高平さん。それにしても、彼の対人関係などに関するそのディテールの細かさ、実名で登場する人々に対する記憶の鮮明さには、まったくもって恐れ入ってしまうばかり。そして、取り上げている素材の選び方が実にいいセンスをしていて、これにもすっかり脱帽なのであります。 目次を見てみますと「若い季節」「無責任一代男」「ざんげの値打ちもない」「ジャニスを聴きながら」「サラリーマンは気楽な稼業と来たもんだ」「のんびりいこうよ、おれたちは」「あっしにはかかわりのねえことでござんす」「まるで転がる石のように」「じっとがまんの子であった」「と日記には書いておこう」etc…と、団塊の世代には涙が出そうなタイトルがズラリ! 出て来る人も、サブカルチャーのトップランナー・植草甚一を始め、林家三平、由利徹、滝大作、和田誠、浅井慎平、赤塚不二夫、山下洋輔、坂田明、タモリ、景山民夫、クレイジーケンバンド、渡辺貞夫、ツービート、所ジヨージ、(これは、ほんの一部)等々。そう、この本を読んでいると、話上手なお相手とワンショット・バーのカウンターでバーボン・ソーダなど片手にそのおしゃべりを聞きながら、実に上質な時間を過ごしているような快感があるのです。 雑誌「ワンダーランド」の創刊、「宝島」の編集部時代、タモリの「今夜は最高!」。その前のレコード制作、アルバム「タモリ」の制作裏話なども秀逸。「昼のいこい」「四カ国マージャン」「世界の短波放送」「FNNのスリラー・アワーとコミックショー」「教養講座・日本ジャズ界の変遷」。ハナモゲラネタとして「相撲中継」「歌舞伎」「料理教室」。ハナモゲラ演歌「けねし晴れたぜ花もげら」、「ソバヤ」など、それこそアイディアの宝島に迷い込んだような楽しさなのであります。 それでは、ここで、私にとっても広告クリエイターの青春時代を彷彿とさせる、「マッキャンエリクソン博報堂で社会人スタート」の一節をご紹介します。高平さんの外資系広告会社での初仕事のことです。 十一月終わりに人事部長に呼ばれた。合格。そのとき、媒体の青柳さんを紹介された。「十二月にヒルトン・ホテルでやるイヤー・エンド・パーティにロック・バンドを仕込んでくれ」さすが外資系だ。忘年会などという言葉は使わない。「それからぼくの助手になって裏方を手伝って欲しい」。その場でかけた電話で、ジャックスを辞めてニュー・ロックのバンドを作った柳田ヒロが出演を了承。ホラ、役に立つでしょう。社会人への希望を大きくふくらませて帰宅すると、テレビで三島由紀夫割腹のニュースが流れていた。クリスマスが過ぎた十二月。赤坂のヒルトン(現・キャピタル東急)のパーティ会場にいた。ステージの袖でインカムから聞こえる青柳さんの声。マッキャン初仕事だった。と、こんな文体です。 とにかくこの七十年代は、みんな元気でギラギラしていて、男がまだまだカッコよかった時代、いろんなアイディアに溢れていた時代だったのであります。そう、それこそ夢がいっぱい、ぼくたちの宝島の季節でした。そんな七十年代の広告、放送、音楽、出版業界のことをこの本で読み、特に若いひとには、(頭にも書きましたが)、ぜひ、自分だけの新しいクリエイティブな生き方の参考書にしてもらいたいものと思っています。 そして、団塊組のこの私はといえば、もう一度この本の熱いものをエネルギーにして、これからもしたたかに生きぬくぞと、改めて、燃えているところなのであります。 私は、このブックレビューに書いた通り、日芸落語研究会の先輩、坂田さんの引きで、高平さんの後釜として田端グループに入ったのである。 その頃、マッキャンは、神田神保町の小学館ビルの7階と8階にあった。グループヘッドの田端さんは東大卒のコピーラーターで、感覚派というよりはロジック派だった。惜しまれて退職していった一橋卒の高平さんに比べ、中途入社した日芸卒の私は、田端さんにとってどうやら物足りない才能のようだったのである。そんな訳で、マッキャンに入社し、結婚もし人生の絶頂期にいる筈の私に、さっそくスランプがやって来た。スランプというより、これは明らかな実力不足だった。つまり、せっかく一軍に上げてもらったのに、その実力はまだまだファームだったのである。 |
カルチャー・ショック |
この頃、私はコピーを書いて田端さんに見せるのが怖くなっていた。出来上がったコピーを見せると「全然、ダメだな」と、9割方冷たい言葉が返ってきた。これは、南北社では体験したことのない厳しい現実だった。それでも田端さんとは、仕事が終わるとグループの仲間と共に、中川という口煩いおばちゃんがやっている一杯飲み屋でよく飲んだ。田端さんは、恐持てだったが、心根は優しい人だった。この時、一緒に飲んだのが、モトジと、ア太郎くんと、本さんだった。本さんは、現在でもマイベストフレンドの1人。作家でイラストレーターの本山賢司氏である。モトジは、私と同学年のCMプランナー、ア太郎くんは、私より1つ下のアートディレクターだった。 こうした仲間との酒飲み話は、又、何かの機会にするとして、まず、私が、マッキャンという外資系の広告会社にすっかりカルチャー・ショックを受けていたことを書こうと思う。言ってみれば、新たに入ったマッキャンで、私はジョン万次郎のようなもの。聞くもの、見るもの、体験するもの、みんなアメリカだった。提出する書類も全部英語で、name、address、department(部署)、signature(サイン)などと書かれているし、四六時中、何かに付けて横文字が行きかっていたのである。 「ハマちゃん、ちょっと悪いけどパーチェス(purchase)にこれ届けて来てくれる」 なんて言われると、「パーチェス?」、「ピーチク・パーチク」なら知っているけど、「パーチェス」って何だろう?英語をろくすっぽ勉強しなかった私だったので、ちんぷんかんぷんだったのだ。「パーチェス(purchase)」とは、購入、買ったもの、購入品、買い物、購買、買い入れ、注文、仕入れと言った意味で、購買管理というセクションだった。このパーチェスには、電波部門と、グラフィック部門があり、制作を依頼しているプロダクションの見積りを受けたり、支払い伝票をアカウンティング(accounting 経理局)に回したりする、クリエイティブ(creative・制作局)の管理セクションなのだ。 もちろん、制作物も然り、クライアントのCCJC(コカ・コーラ ジャパン)に提出するコピーには、全部トランスレーション(translation・翻訳)が付くのである。従ってクリエイティブには、各外資系得意先を何社か受け持つトランスレーター(translator)の女性がいた。彼女たちは、書類の翻訳と、ミーティング時の同時通訳をやっていた。 それにプラスして彼女たちは、外人CD(クリエイティブ・ディレクター)のセクレタリー(secretary・秘書)も兼ねていた。彼女たちペラペラお姉さまたちは、仲間どうしで雑談の時、私たちに聞かれたくない話になると急に英語でしゃべり出すのだった。そんな時、私には、笑い声まで英語に聞こえた。 こんなカルチャー・ショックに加え、スランプというか、ファームの実力の私である、それこそ薄氷を踏むような毎日だったのである。 コカ・コーラの広告キャンペーンは、外人CDを除くと、私のギャラリー工【こう】で開催したマッキャンOBグループによる展覧会、「Again展」に参加してくれた陶芸家の安井さんが、日本人のトップとして采配を振っていた。その下に、田端さんや坂田さんがグループヘッドでいて、メインストリーム(mainstream)〔川の〕本流 、主流(派)といった意味のブランド・キャンペーンを中心に制作していた。コカ・コーラの広告は、この他、プロモーション広告や、クオリティー・キャンペーンなどをやっていた。その頃、メインストリーム・キャンペーンは、「Big New Life」、「Rial Life」、と続き、「コカ・コーラうるおいの世界」というキャンペーンになっていた。 私は、この頃、プロモーション(promotion・販売促進)広告を中心にやらされていた。ラジコンの飛行機やコカ・コーラの自販機型ラジオなどが当たるキャンペーンや、ヨーヨー・チャンピオンがラッセルヨーヨーというプロフェッショナルヨーヨーを使ってコンテストを行うキャンペーンなどである。こうしたキャンペーンのTVCM、ラジオCM、新聞広告、雑誌広告、ポスター チラシなどの一式を創っていたのだ。外資系なので、チラシもフライヤー(flyer)と呼ばれ、消費者向けをコンシューマー・フライヤー(consumer flyer)、販売業者向けをディーラー・フライヤー(dealer flyer)と呼んでいた。私がやっとの思いで書いたヨーヨー・キャンペーンのキャッチフレーズは、「ヨーヨーは、スポーツ」というコピーだった。 そして、私は、初めて「広告辞典」などを買い、自分のいる業界のことを学び始めたのである。「Again展」に参加してくれた作家さんで、この頃からマッキャンにいた方は、安井さんの他に、画家の笹尾さん、漆芸家の金山さん、ジュエリーの平子さん、作家でイラストレーターの本山さん、バードカービングの皆川さん、魚の剥製アートの浅井さん、陶芸の武笠さん、柿本さん、何さん、版画の渡邉さん、ガラス工芸の竹内さん、戯画の飯田さんたち。版画の棚橋さんは、この頃よりも少し後の入社だった。あの頃、私と同じコピーライターの柿本さんの机の前に、原稿用紙にデカデカと「下克上」と書いてあったのを、今でも忘れられずに強烈に覚えている。 そんな私たちは、コカ・コーラだけをやっていたグループだったので、忙しい時は、徹夜続きということもあったが、暇な時は、それこそ何もやることがなかった。そこで、各グループが部屋毎に独立しており、扉もあり、密室のようになっていたので、それをいいことに1日中、ドボンやポーカー、金ころがしという周り将棋でお金を賭けたりという博打に明け暮れていた。そして、夜になると、麻雀をするか、飲むかだった。私もしょっちゅうではないが麻雀に付き合うことがあった。でも、あまり強くなかったので、どちらかといえばカモられることの方が多かった。 |
日宣美のこと |
この頃よく行った中川という店は、お昼に定食を食べに行き、夜は飲むという店で、何かにつけて入り浸っていた。私たちマッキャンの人間と、小学館などの出版の人間がこの店の常連だった。口煩(うるさ)いおばちゃんは、白木のカウンター命で、私たちが醤油や酒、食いものを零(こぼ)すとすぐにカミナリが落ちた。煩(うるせ)えなと思いながら、ハイハイと言いつつ飲んでいた。この日は、別にある小座敷で飲んでいたのだが、ここでの話は、映画のこと、本のこと、もちろん広告のこと、日替わりで色んなことが語られた。 「馬鹿野郎、お前たちは、何で日宣美を潰したりしたんだよ」 それからというもの、よくもこれだけ言えるものだと、特に田端さんと本さんのア太郎くん口撃には度肝を抜かれ、私は、只々、驚愕、感心するしかなかった。可愛そうなのは、ア太郎クン。いじめられっ子が番長グループに叩きのめされるように、この夜は、成すすべもなく矢折れ刀尽きて沈んでいった。 そこで、2000年に行われた「日宣美の時代」という、企画展のことがネットに出ていたので、収録しておこうと思う。 日宣美の時代:日本のグラフィックデザイン 1951-70 展 戦後復興から日本が急激な変貌を遂げる時代に、デザイナーの全国組織として結成され、日本のグラフィックデザイン史に大きな足跡を残してきた日宣美(日本宣伝美術会/1951-70)。あの劇的な解散から30年が経つ。新人の登竜門として今日のデザイン界を担う秀才、秀作を世に送り出し、当時、“日宣美現象”とも呼ばれたデザイン界真夏の祭典・日宣美展を中心に20年間の活動を、日宣美展資料、作品、関連資料約200点を前期、後期の2回にわけて展示。 トーク:瀬木慎一+田中一光+宇野亜喜良 木村恒久+永井一正+佐野寛 後援:日本グラフィックデザイナー協会、武蔵野美術大学。 出品作家:粟津潔、宇野亜喜良、伊藤憲治、大橋正、勝井三雄、亀倉雄策、 木村恒久、河野鷹思、佐野寛、杉浦康平、田中一光、永井一正、原弘、早川良雄、福田繁雄、細谷厳、山城隆一、和田誠ほか。 1951年に結成され1970年に解散した日宣美は、おそらく近代日本においてもっとも重要なグラフィックデザイン運動だった。長老の多くが鬼籍に入る中、多数の保存作品を集めて、あの熱い夏の輝きを20世紀末の夏に再現できたことは、最高だった。日宣美を知らない人たちは本展をどう見たのだろう。日宣美の時代が日本グラフィックデザインの黄金期だったことが分かっただろうか。初期の作品の、戦前から続くレトロな表現から、後期の作品の、今なお古びていない現代的表現への進化を彼らはどう印象しただろうか。日宣美展に現れる新しいデザインにわれわれがどれほど感動し、どれほど夢中になったか、分かってくれただろうか。2回に渉って開かれたトークショーが手がかりを提供していたのだが。もう一つ、多くの作品を収録しての記録集「日宣美の時代」は月日が経つに連れ貴重な本になっていくだろう。 佐野 寛 この佐野さんは、モス・アドバタイジングを設立し、(株) SDS研究所所長をやっておられる著名なアートディレクターで、やがて本さんがマッキャンを辞め、イラストレーターとして出発した会社が、このモス・アドバタイジングだった。確か、写真家の浅井慎平さんもこのモスにいた筈である。わがギャラリー工【こう】で本山賢司氏の個展をやる時は、必ず見に来てくれた業界の大先輩である。 |
「ビニエット」という手法 |
ところで、神田神保町界隈では、ビアホールのランチョンが有名だった。ビール注ぎの名人がいてキメの細かい泡が売りもので、私たちも時々ここで仲間たちとうまいビールを飲んだ。そして、何と言っても神保町は古本屋の街である。資料探しといっては会社を抜け出し、よく古本屋街をさ迷い歩いたものだった。昼飯には、「いもや」というてんぷら屋にもよく出掛けた。「新世界菜館」、ここの酸辣湯麺(スーラータンメン)とカレーライスもなかなかだった。この時代は、夜になると雀荘になりここでマージャンをしたものだ。他に、餃子と担麺が旨かった(今は別の場所に移ってしまったようだが)「おけい」という店。わりこそばが名物の「出雲そば本家」、洋食の「キッチン南海」、麦とろの「亀半」なども定番だった。兎に角、この神保町界隈は、昔ながらの味わいでさりげなく旨い店が色々とあった。麻雀が会社で大流行の時は、昼飯の間に半チャンなどということもしばしば。今思うと、会社は私たちによく給料をくれていたものだと頭が下がるばかりである…。 仕事の話に戻ると、コカ・コーラのメインストリーム・キャンペーンには、マッキャンの十八番(おはこ)「ビニエット」という手法が使われていた。 「ビニエット(vignette)」【名】とは、〔書物の扉などの〕装飾模様、写真。〔文章による〕寸描、〔文芸・舞台の〕小作品、短い場面。といった意味があり、マッキャンでは、この最後の、短い場面のことを指していた。つまり、短いカットを重ねコラージュすることで、テーマを浮かび上がらせる手法で、テーマ・ソングと一体で表現することが多かった。 例えば、 君とふたりして ゆこう新世界 といったリリック(詞)と曲に合わせ、新しい若者世代のワクワク感を、ほんの数秒のムービー・シヨットや、スチール・カットの積み重ねで、魅力いっぱいに表現したのである。「Big New Life」では若者の大きな新世界への夢を描き、「Rial Life」では、身近な若者のさわやかでおしゃれなライフスタイルにスポットを当てた。この頃、田端さんから、「Rial Life」って言うのは「僕たちは義務だってゲームに出来る」という当世流若者感覚の具現化だと言われた。これを聞いて、私は、何かマッキャン的広告づくりのツボを教えられたような気がしたものだった。 田端さんは、東大のヨット部の出身で、自分のクルーザーを伊豆の下田に持っていた。そして、安井さんは、湘南に住んでおり、逗子のシーボニアマリーナのシナーラで、コカ・コーラグループのメンバーとコカ・コーラのCMに出演したモデルさんたち、地元の若者たちを集めてパーティーを開いた。このパーティーに出た私たちは、それこそまるでコカ・コーラのCMの中にいるような、これぞ湘南ライフなカッコイイひとときを味わったのである。太陽がギラギラとまぶしい季節だった。 |
1974年(昭和49年) |
出来事
■戦後初のマイナス成長 流行語 ■巨人軍は永久に不滅です(長島茂雄引退のあいさつより) ヒット曲 1位 なみだの操 殿さまキングス 193.6万枚 ■日本レコード大賞:襟裳岬(森進一) |
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