作:濱田 哲二 |
『ハマダ伝・改作版』 その6 目次 |
風呂なし高井戸時代
夕立ちと軍歌 坂田グループにトレード 1976年(昭和51年) |
風呂なし高井戸時代 |
同じ頃、私たち夫婦は、ユウジの世話で高井戸の首都高速出入口近くの鉄骨アパートに住んでいた。私たちは結婚してすぐに子供が出来、翌年には娘が誕生した。アパートは2階建てで、二世帯が住めるようになっていた。1階が台所とリノリューム張りのリビング、2階が6畳と3畳の畳部屋だった。3畳の方は机を置き書斎のようにしていた。冬は、寒さが身に沁みる家だったが、普通のアパートと違い、庭もあり、どちらかといえば一軒家のような使い勝手だった。その家の隣には、この地域の土地持ちが所有する大きなキャベツ畑があった。そして、その事件は、このキャベツ畑で起こった。
その日も、私は、神保町か新宿でしたたかに飲んでいた。この頃は、もう漫画家のあしはらたいじ氏(アッシー)もマッキャンに入社しており、ア太郎クンと、アッシーと私とで新三馬鹿トリオを結成していた。私たちは、いつもつるんでは飲み、帰りはタクシーで、大概、アッシーが、私の家、ア太郎クンのところを廻って送ってくれていた。それは、帰路の道筋のせいもあったが、アッシーが飲んだ後一番しっかりしていたからだった。 そして、この頃、この高井戸の家にはお風呂がなかった。私たちは、娘を連れ10分位歩いて、環8を渡って銭湯に行っていた。「子連れ神田川」だった。 貴方は もう忘れたかしら 若かったあの頃 何も怖くなかった 1973年(S.48)の「かぐや姫(メンバー:南こうせつ、伊勢正三、山田つぐと)」のヒット曲だが、私たちも、この歌のカップルではないが家に<風呂なし>の、まだまだ貧しい暮らしだった。 が、それから半年ほどして確かボーナスで簡易型カプセルバスを購入し、窓辺の庭の片隅に取り付けた。笑ってしまうほど狭い風呂だったが、贅沢に自宅でも風呂が入れるようになったのである。 |
夕立ちと軍歌 |
又、子供絡みの思い出では、こんなこともあった。それは、代田橋にある家人の姉の家を訪ねた時のことだった。家を出て甲州街道に出た辺りで、突然夕立が降って来たのである。私たちは慌ててタクシーを拾い、私が娘を抱かえて乗り込むと、凄い雨の中をそのタクシーは走り出した。 この日は、それから学校の先生をやっている家人の姉の酒豪のご主人と、当然の成り行きで酒盛りとなった。その頃になると、さっきまでの夕立は嘘のように治まっていた。義姉の家には双子の息子がいて、ご主人は子煩悩で大の大東亜戦争フェチ。 色んな軍記ものや太平洋戦争に関する著作が本棚にズラリと並んでいた。そして、もちろん軍歌も大好きおじさんだった。私は、落研同期生の畑中と歌って以来の軍歌を、このご主人と高吟した。「濱田上等兵征ってまいります!エンジンの音轟々と 隼は征く雲の果て〜 翼に輝く日の丸と 胸に描きし赤鷲の 印(しるし)はわれらが戦闘機〜」「若い血潮の予科練の 七つ釦(ボタン)は桜に錨(いかり)〜」まったくいい気なものだった。帰りも、又、又、すっかり酔っ払ってタクシーになってしまった。廣澤虎三ではないが、「馬鹿は死ななきゃなおらない」である。拝啓、家人様。 陳謝、深謝、万謝…。 ところで、この頃、私は何を考えていたのだろうかと、今、改めて考えてみた。すると、やはりこの頃は、家庭のことよりも自分が一丁前のクリエイターになることばかりを考えていたような気がした。もちろん、家庭のことも大切にしなければと思ってはいたのだが、それよりもクリエイターとして面白味のある人間になるためには、どうしたらいいのか?そんなことばかり一生懸命考えていた。 それは、芸のためなら女房も…という奴だったのかも知れない。今の自分は噺家ならば前座・二つ目修行時代、どんどんヤンチャをしなければなどと、勝手に自分の行動を正当化させながら…。 そして、「人生IQよりも、愛嬌だ」、「極端よりも先端をめざせ」、「直球ダメなら、変化球」、「人間臭く、ファジーでいこう」、「常識と非常識なら非常識でいこう」などというキーワードを、ランダムにノートに書き殴りながら、いまいちブレークしない日々の不安と精一杯戦っていたのである。 |
坂田グループにトレード |
そして、1976年の春頃だったと思う。やはり、私のコピー力は田端さんには満足されず、私をマッキャンに呼んでくれた坂田さんのグループにトレードされることになった。トレードというより坂田さんが責任上、私の面倒を見る羽目になったという方が当たっていたのかも知れない。 この頃、巷では、後々、「私作る人と」いうのは女性蔑視だと物議を醸した、「私作る人 僕食べる人」のハウスシャンメンしょうゆ味や、「ちかれたびー グロンサン」、佐藤允の「若さだよ、ヤマちゃん!サントリー純生」などが75年に流行り、野坂昭如の「俺もお前も大物だ!サントリーゴールド」、欽ちゃんの「よ〜く考えてみよう サクラカラー24」、前川清の「ホッカホカだよおっ母さん カプシプラスト」などが76年を彩っていた。 ところで、マッキャンが20周年記念(1981年3月)で出版した「McCANN
ACTION」という冊子が見つかったので、これを見てみると、76年はマッキャン制作のカシオの 今、あなたの時計はデジタル?それともアナログ?デジタル式腕時計のシェアは今や60%といわれています。カシオよりデジタル式腕時計がはじめて発売されたのが1974年。そして1976年より、当杜も参画して大々的なキャンペーンを開始。短期間でデジタル式はアナログ式の地位を逆転してしまいました。その要因はもちろん技術の勝利といえます。時計という従来の発想をこえた、新しい感覚のこの商品は、あっという間に消費者のハートをつかまえてしまったのです。 確か、カシオの山口百恵のキャンペーンは、Again展に参加してくれている画家の笹尾さんのグループでやっていたと記憶している。この年は、ロッキード事件で田中角栄が逮捕された年でもあった。「記憶にございません」(小佐野賢治)が流行語になった。 又、この年、外人CD(クリエイティブディレクター)のセリリさんの家でクリスマス・仮装パーティーをやったのは、今でもいい思い出である。坂田さんが海賊をやり、私はピーターパンをやった。アッシーは周囲の期待通り青鬼となり、芸大出のヨシヤが赤鬼になった。空想建築を描く画家の若かりし野又穫はミュージシャンに扮し、謎の中国人や、飯田クンのヘンテコ宇宙人。可愛いクーニャンや、ミッキー、ミニーも登場した。二次会は、そのままの格好で新宿の街を歩き、トコちゃんという看板娘がいた奈可多家という飲み屋に繰り出し大騒ぎをしたものだった。 年が明け77年になると、坂田さんがCDとなり、私はその傘下の箕倉グループに移った。この頃から、又、私はコカ・コーラの仕事をやるようになっていた。コカ・コーラのキャンペーンは、アメリカ西海岸の若者文化をフューチャーした、 「Come on in.Coke」キャンペーンになっていた。 |
1976年(昭和51年) |
出来事
■モントリオール五輪開催(体操男子団体が5連勝) 流行語 ■記憶にございません(ロッキード事件の国会証人喚問で、証人質問に対する言い
逃れの言葉) ヒット曲 1位 およげ!たいやきくん 子門真人
453.6万枚 ■日本レコード大賞:北の宿から(都はるみ) |
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