ハマダ伝・最新版

作:濱田 哲二



『ハマダ伝・最新版』 その6 風呂なし高井戸時代  

同じ頃、私たち夫婦は、ユウジの世話で高井戸の首都高速出入口近くの
鉄骨アパートに住んでいた。
私たちは結婚してすぐに子供が出来、翌年には娘が誕生した。
アパートは2階建てで、二世帯が住めるようになっていた。
1階が台所とリノリューム張りのリビング、2階が6畳と3畳の畳部屋だった。
3畳の方は机を置き書斎のようにしていた。
冬は、寒さが身に沁みる家だったが、普通のアパートと違い、庭もあり、
どちらかといえば一軒家のような使い勝手だった。
その家の隣には、この地域の土地持ちが所有する大きなキャベツ畑があった。
そして、その事件は、このキャベツ畑で起こった。

その日も、私は、神保町か新宿でしたたかに飲んでいた。
この頃は、もう漫画家のあしはらたいじ氏(アッシー)もマッキャンに入社
しており、ア太郎クンと、アッシーと私とで新三馬鹿トリオを結成していた。
私たちは、いつもつるんでは飲み、帰りはタクシーで、大概、アッシーが、
私の家、ア太郎クンのところを廻って送ってくれていた。
それは、帰路の道筋のせいもあったが、アッシーが飲んだ後一番しっかり
していたからだった。

この日、深夜近くアッシーに送られてタクシーをキャベツ畑で降りた私は、
躊躇(ためら)わず、キャベツ畑の前で座り込んだ。
それを、家人が2階の窓からもう帰る頃と見ていたのだ。
(あれっ、キャベツ畑に座り込んじゃっている。本当にしょうがない)
と思って、私を迎えに出たのだという。
すると、私は、キャベツ畑で靴を脱ぎ、もう自宅の上がり框(がまち)に
いる気分。そのまま寝る体勢に入っていた。
「ここは、外なんだから早く家に入りましょう」
と言っても、私はまるで動かない。そればかりかグズグズの上に、
訳のわからない抵抗も始めていた模様。この時、家人の今まで溜まりに
溜まっていたものが爆発した。所謂、切れるというやつだ。
「いいかげんにしてよ、私を何だと思っているの。家庭(うち)の
ことも少しは考えてよ!いつも、いつも、こんなに酔っ払って!」
さすがに、その剣幕に、少し酔いが醒めたようだった。
私は家人に従い多分スゴスゴと家に入ったのだろう。
が、本当のところは、あまりよく覚えてはいない。
その後、どの位反省したか、これも、もう古い話なので、
あまりよく覚えてはいない…。

そして、この頃、この高井戸の家にはお風呂がなかった。
私たちは、娘を連れ10分位歩いて、環8を渡って銭湯に行っていた。
「子連れ神田川」だった。
銭湯の女将さんが親切な人で、先に出た娘の面倒をよくみてくれた。
名前は何と言うのだろう、「お歩き」とでも言うのだろうか。サークルに
車輪が付いた子供が安全に歩き廻れる器具が置いてあり、それに入れて
面倒を見ていてくれていたのである。
家人が風呂を出る頃になると、お母さんもう出ますよと、番台からか、
女風呂の方から私に声を掛けてくれた。

貴方は もう忘れたかしら
赤い手拭い マフラーにして
二人で行った 横丁の風呂屋
「一緒に出ようね」って 言ったのに
いつも私が 待たされた
洗い髪が芯まで冷えて
小さな石鹸 カタカタ鳴った
貴方は 私の身体(カラダ)を抱いて
「冷たいね」って 言ったのよ

若かったあの頃 何も怖くなかった
ただ貴方のやさしさが 怖かった

1973年(S.48)の「かぐや姫(メンバー:南こうせつ、伊勢正三、山田つぐと)」
のヒット曲だが、私たちも、この歌のカップルではないが家に<風呂なし>の、
まだまだ貧しい暮らしだった。

が、それから半年ほどして確かボーナスで簡易型カプセルバスを購入し、
窓辺の庭の片隅に取り付けた。笑ってしまうほど狭い風呂だったが、
贅沢に自宅でも風呂が入れるようになったのである。

又、子供絡みの思い出では、こんなこともあった。
それは、代田橋にある家人の姉の家を訪ねた時のことだった。
家を出て甲州街道に出た辺りで、突然夕立が降って来たのである。
私たちは慌ててタクシーを拾い、私が娘を抱かえて乗り込むと、
凄い雨の中をそのタクシーは走り出した。
傘を持たずに家を出たので、私たちはケッコーな濡れ方だった。
と、長髪の頼りなげな濡れ鼠の私をバックミラーに見ながら、
「奥さんも大変だね、若い旦那と子供の面倒じゃ。でも、若いうちに
苦労しておけば、そのうちきっといいことがあるから、頑張りなさいね」
人の良さそうな運ちゃんがいかにも気の毒そうに家人に語り掛けてきた。
大きなお世話だと心の中で呟きながら(俺って、そんなに頼りなくみえるのか)
と、ちょっとショック。話し好きの運ちゃんはいい気になって自分の家族自慢
をはじめている。ゴロゴロ、ピカッ!豪雨に加え雷までが鳴り出した。
それこそバケツをひっくり返したような雷雨の中を代田橋に着いたのだった。
「やあね、年上にみられちゃったワ…」義姉の家の前でタクシーを降りる時、
家人が私の耳元で可笑しそうに囁いた。私は、(バッカヤロー)と思った…。

この日は、それから学校の先生をやっている家人の姉の酒豪のご主人と、
当然の成り行きで酒盛りとなった。
その頃になると、さっきまでの夕立は嘘のように治まっていた。
義姉の家には双子の息子がいて、ご主人は子煩悩で大の大東亜戦争フェチ。
色んな軍記ものや太平洋戦争に関する著作が本棚にズラリと並んでいた。
そして、もちろん軍歌も大好きおじさんだった。
私は、落研同期生の畑中と歌って以来の軍歌を、このご主人と高吟した。
「濱田上等兵征ってまいります!エンジンの音轟々と 隼は征く雲の果て〜 
翼に輝く日の丸と 胸に描きし赤鷲の 印(しるし)はわれらが戦闘機〜」
「若い血潮の予科練の 七つ釦(ボタン)は桜に錨(いかり)〜」
まったくいい気なものだった。帰りも、又、又、すっかり酔っ払って
タクシーになってしまった。
廣澤虎三ではないが、「馬鹿は死ななきゃなおらない」である。
拝啓、家人様。 陳謝、深謝、万謝…。

ところで、この頃、私は何を考えていたのだろうかと、
今、改めて考えてみた。
すると、やはりこの頃は、家庭のことよりも自分が一丁前の
クリエイターになることばかりを考えていたような気がした。
もちろん、家庭のことも大切にしなければと思ってはいたのだが、
それよりもクリエイターとして面白味のある人間になるためには、
どうしたらいいのか?そんなことばかり一生懸命考えていた。

それは、芸のためなら女房も…という奴だったのかも知れない。
今の自分は噺家ならば前座・二つ目修行時代、どんどんヤンチャを
しなければなどと、勝手に自分の行動を正当化させながら…。

そして、「人生IQよりも、愛嬌だ」、「極端よりも先端をめざせ」、
「直球ダメなら、変化球」、「人間臭く、ファジーでいこう」、
「常識と非常識なら非常識でいこう」などというキーワードを、
ランダムにノートに書き殴りながら、いまいちブレークしない日々の
不安と精一杯戦っていたのである。


そして、1976年の春頃だったと思う。
やはり、私のコピー力は田端さんには満足されず、私をマッキャンに呼んで
くれた坂田さんのグループにトレードされることになった。
トレードというより坂田さんが責任上、私の面倒を見る羽目になったという方が
当たっていたのかも知れない。

私は、コカ・コーラの仕事を離れ、ネッスルクランチチョコレート、
強い子のミロ、Gillette GUなどを担当するようになった。コピーライターの
グループヘッドの下から、CMプランナーの坂田さんの下になり、ひと月が過ぎ、
ふた月が過ぎると、少し緊張が解(ほぐ)れたのか、坂田さんのアドバイスに
助けられてか、徐々に私は自信を取り戻していった。
そして、クランチチョコレートの「かじっちゃうゾ」というコピーは、坂田さんの
アドバイスで生まれた私の出世コピーとなったのである。

この頃、巷では、後々、「私作る人と」いうのは女性蔑視だと物議を醸した、
「私作る人 僕食べる人」のハウスシャンメンしょうゆ味や、
「ちかれたびー グロンサン」、佐藤允の「若さだよ、ヤマちゃん!
サントリー純生」などが75年に流行り、野坂昭如の「俺もお前も大物だ!
サントリーゴールド」、欽ちゃんの「よ〜く考えてみよう サクラカラー24」、
前川清の「ホッカホカだよおっ母さん カプシプラスト」などが76年を
彩っていた。

ところで、マッキャンが20周年記念(1981年3月)で出版した
「McCANN ACTION」という冊子が見つかったので、
これを見てみると、76年はマッキャン制作のカシオの
デジタル式腕時計の広告が評判を呼んでいたようである。
その冊子には、こんな風に書かれていた。

今、あなたの時計はデジタル?それともアナログ?デジタル式腕時計の
シェアは今や60%といわれています。カシオよりデジタル式腕時計
がはじめて発売されたのが1974年。そして1976年より、当杜も
参画して大々的なキャンペーンを開始。短期間でデジタル式は
アナログ式の地位を逆転してしまいました。
その要因はもちろん技術の勝利といえます。時計という従来の発想を
こえた、新しい感覚のこの商品は、あっという間に消費者のハートを
つかまえてしまったのです。
当社はデジタル式腕時計を徹底した価格表示で訴えるとともに、
この新技術をライフスタイルの中での新ファッションとしてとらえました。
そのシンボルとして起用したのが大橋巨泉。
世の中の新しい動きに敏感に反応する彼が紹介する、まさに新技術の結晶
としてのデジタル式腕時計。商品の真実が的確なイメージタレントにより、
語られたのです。
ビジネスマン、スポーツマンなど若者を中心にデジタル式は人気を集めて
いきました。そしてレディス・デジタルが登場。私たちは最も時代を表現し、
最も先鋭的なファッションそのものであるところの山口百恵をイメージ
ギャルとして起用。狙いは的中し、デジタル式腕時計はその機能と
ファッション性で、破竹の勢いでシェアを拡大していきました。
このように、当社のタレント起用はつねに商品イメージとタレントイメージ
の一体化のもとに行われてきました。
コカ・コーラホームサイズ発売時に主婦のハートをとらえた加山雄三。
アットホームなコカ・コーラ1リットルサイズの大きさを表現した京塚昌子。
スプライトの山岡久乃。姿も形も美人ぞろいというチップスターの商品
メリットを語った大原麗子。などと…。

確か、カシオの山口百恵のキャンペーンは、Again展に参加してくれている
画家の笹尾さんのグループでやっていたと記憶している。
この年は、ロッキード事件で田中角栄が逮捕された年でもあった。
「記憶にございません」(小佐野賢治)が流行語になった。

又、この年、外人CD(クリエイティブディレクター)のセリリさんの家で
クリスマス・仮装パーティーをやったのは、今でもいい思い出である。

坂田さんが海賊をやり、私はピーターパンをやった。
アッシーは周囲の期待通り青鬼となり、芸大出のヨシヤが赤鬼になった。
空想建築を描く画家の若かりし野又穫はミュージシャンに扮し、謎の中国人や、
飯田クンのヘンテコ宇宙人。可愛いクーニャンや、ミッキー、ミニーも登場した。
二次会は、そのままの格好で新宿の街を歩き、トコちゃんという看板娘がいた
奈可多家という飲み屋に繰り出し大騒ぎをしたものだった。

   

年が明け77年になると、坂田さんがCDとなり、私はその傘下の箕倉グループ
に移った。この頃から、又、私はコカ・コーラの仕事をやるようになっていた。
コカ・コーラのキャンペーンは、アメリカ西海岸の若者文化をフューチャーした、
「Come on in.Coke」キャンペーンになっていた。


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