作:濱田 哲二 |
『ハマダ伝・改作版』 その7 目次 |
初めての海外、ロスへ はだしで地球を駆けるのさ 1977年(昭和52年) |
初めての海外、ロスへ |
1977年、私は休暇を利用して、中学時代からの友だちで開業していた歯科医院を一時閉院してUCLAに歯科留学していた竹中クン、いや竹中先生を頼ってロスに自費で旅行することに。初の海外旅行だった。それは、「Come
on in.Coke」キャンペーンの舞台、アメリカ西海岸を肌で体験して来ようと考えたからだった。往復の飛行機は、一番安かったので中華航空で行った。ロスの空港には、竹中先生がクルマで迎えに来てくれていた。
竹中クンは、中学3年の2学期に、鳥取の方から小田原に転校してきた。転校は父親の仕事の関係で、小学生の頃からもう5〜6回目だと言っていた。今でも印象に残っているのだが、中学の帰りにわが家に立ち寄った時、相撲のテレビを見ていた私の親父とすぐに打ち解け、取り組みの話など楽しそうにしながら旨そうにお菓子を食べお茶を飲んでいた姿が忘れられない。きっと転校が多かったので、その頃から自分から積極的に相手に心を開かないと仲間外れになるということを本能的に知っていたのかも知れなかった。 そんな彼と私はとても馬が合った。転校してすぐ、私が部長だったラジオ部の一員にもなっていた。そして、私がその頃夢中で作った自作の真空管のアンプを聴いてとても気に入ってくれ、「僕のアンプも作ってくれないか」と私に依頼してくれたのだった。私は秋葉原で必要なパーツやスピーカーなどを購入し、竹中クン用のステレオアンプを組み立てた。すごく嬉しかったのを覚えている。高校は、竹中クンは普通科の名門小田原高校に入学。私は前にも書いたように工業高校の電子科に入学した。が、学校は違っても、それからも家を行き来し、付き合いが続いたのだった。 実は、この頃のことを思い出そうと、古い創作ノートや昔書いた原稿を引っ張り出してみたら、こんな文章に行き当たったので紹介しようと思う。 私はエレクトロニクス技師になるべく、その道を歩んでいた。秋葉原の電気部品の問屋街を漁り歩き、鉱夫が金鉱から鉱石を掘り当てた時のような興奮で、抵抗器、コンデンサー、トランス、真空管などを手にした。アルミのシャーシーを工作し、部品を並べる。大型のトランスの冷ややかな感触を思い起こし、夜中、布団から這い起きて、そのトランスを見ながら、込み上げてくる感動に胸を震わせたものだった。 そして、彼が小田高に入るとすぐに、彼の父親は、又、転勤になり、家族も東京の野方の社宅(父君は会社の役員だったので立派な一軒家)に移っていった。が、彼はそのまま小田原に残り下宿をし、小田高に通い続けていた。やがて、私たちは大学受験の季節を迎えた。彼は日大の歯学部を受験し、私は日大の芸術学部を受験した。その時、竹中家では、私が日芸の試験を受ける間、自分の息子も受験だというのに、野方の家に泊めてくれ色々と面倒をみてくれたのである。 更に、家人が私と結婚して南北社を辞めた後の話だが、神田岩本町に開業していた竹中歯科で、家人が歯医者の娘だったこともあったのだが、暫くの間、受付の仕事に雇ってくれたのだった。 そんな竹中先生とは、彼がアメリカに留学してからも連絡を取り合っていて、手紙のやり取りと国際電話で私のロス行きが決まったのである。 彼のロスアンジェルス・ソーテルのアパートメントは三部屋ほどあり、リビングもキッチンも驚くほど広かった。クルマは中古の大きなアメ車ビュイックだった。このソーテルのアパートメントには、竹中先生と同じように歯科の勉強をするためにやって来た日本人が何人かいた。技工士だという岡本さんという人は、確か熊本から来ていた人で、奥さんと幼い息子さん連れで来ていた。私が竹中先生のところにいた間は、このご夫婦に大変お世話になった。岡本夫妻はとても気のいい人たちで、竹中先生が授業の時は、この人たちが私に色々と付き合ってくれたのだった。 私がこの旅行で行ったのは、USCやUCLAのキャンパス、サンタモニカ・ビーチ、マリナデルレイ、ウエストウッド、ビバリーヒルズ、チャイニーズ・シアター、サンタデルレー、サンフランシスコ、フィッシャーマンズワーフ、マジックマウンテンなど、など。 On a dark desert
highway, cool wind in my hair Welcome to
the Hotel California Her mind
is Tiffany-twisted, she got the Mercedes bends So I called
up the Captain, Welcome to
the Hotel California Mirrors on
the ceiling, Last thing
I remember, I was 暗く寂しいハイウェイ ようこそホテル・カリフォルニアへ そこで僕は支配人に告げた ようこそホテル・カリフォルニアへ 気がつくと僕は出口を求めて走りまわっていた ビバリーにあるチャイニーズ・シアターでは、「スターウォーズ」の記念すべき第1作を観、マジックマウンテンでは「Come
on in.Coke」のCMにも登場したローラーコースターに乗った。竹中先生の運転で一昼夜を掛けて行ったシスコのゴールデンゲイトブリッジには、なんと歌の詞そのままに霧がかかっていた。
しかも、その後、霧が晴れ、コバルトブルーの海と空にゴールデンゲイトブリッジが、それはそれはまぶしかった。
アメリカには“Catalg
Joy”(カタログのたのしみ)とか」“Catalg Freak”(カタログきちがい)という言葉があります。実用されているいろいろなカタログを集めて、ながめては 私は、コカ・コーラの仕事のためということはもちろんだったのだが、こうしたアメリカ若者文化を肌で理解したいとロスに旅立ったのである。だからといって、英会話を学ぶ訳でなく、それこそ運よく竹中先生が留学していたので、ちゃっかりその尻馬に乗らせてもらったという薄っぺらなものだった。英語がペラペラではなく、薄っぺらのペラペラ、この辺が、私のB級人生のいかにもB級なところなのだろう(自戒)…。 それでも、私は、初めての海外で、色々なことを吸収したような気がする。月並みではあるが、正に<百聞は一見にしかず>だった。このとき竹中先生とは、学生時代、よく彼の家に泊まって朝まで夢中で話した時のように、これからの夢や目的を熱く話したのを記憶している。が、今、思い返してみると、具体的にどんなことを話したのかはよく覚えていないのだ。ウエストコーストの陽射しで精悍に日焼けした彼が、まっ白い歯でハッピーに笑っている情景しか思い出せないのである。それなのに、彼が歯科医院を開業したとき、プレゼントに書家だった親父に書いてもらった「鬼手仏心」という色紙の文句などを、なぜか突然、思い出したりしていた。 「鬼手仏心」とは、「手は鬼のように、心は仏のように」外科医は残酷なほど大胆に手術するが、それは患者を治そうとするやさしい心によるものだというような意味である…。 |
はだしで地球を駆けるのさ |
私が作詞を担当した1978年のコカ・コーラキャンペーンソング「はだしで地球を駆けるのさ」、CMでは、もちろんCome
on in.Cokeと歌っていたのだがレコードでは、商品名が歌えないので、Come on in the shining way と歌っている。 晴れた空だよ 明日が見える さぁ ラジオの音に いま僕は喜びにみちた あぁ 陽ざしの中へ *晴れた空だよ 明日が見える *くり返し |
歌:トランザム
作詞:浜田 哲二 晴れた空だよ 明日が見える あぁ陽ざしの中へ あぁ君をつれて
又、雑誌広告では、こんなコピーを書いていた。 (1)Come on in.Coke 駆けていこうよどこまでも。 スカッとさわやかコカ・コーラ (2)Come on in.Coke 陽ざしまで緑の匂いなんだ。 スカッとさわやかコカ・コーラ (3)Come on in.Coke 楽しんでるかい太陽を。 スカッとさわやかコカ・コーラ (4)Come on in.Coke あふれる光が呼んでるぞ。 スカッとさわやかコカ・コーラ (5)Come on in.Coke 海とひとつ。太陽斜めにスロープを滑る。あぁ、いい波だ。 スカッとさわやかコカ・コーラ (6)Come on in.Coke 瞬間、海が光る。僕は急降下するカモメ。あ、波が笑った。 スカッとさわやかコカ・コーラ (7)Come on in.Coke グリーンフィールドは僕らの海原。50ノットで駆け抜けた。 スカッとさわやかコカ・コーラ これで、やっと飯の喰えるクリエイターの世界に足を踏み入れることが、出来たようだった。そして、その翌年の79年には、このCome on in.Cokeロケに随行して、再び、カリフォルニアの地を踏んだ。私がデズニーランドに初めて行ったのは、このロケの時で、確か、スペースマウンテンが出来たばかりで、大人気の時だった。そのPR用タブロイド版の「Coke・PRESS」のコピーは、こんな感じである。 「名付けてバルーン・ロード。395号線は、 “104MHz,KISSサザンカリフォルニア”のアナウンスが終ると、カーラジオからはまたディスコサウンドが流れ始めた。遂にその勇姿を現わさなかった、幻のマウント・ベイカーを後にした撮影クルーは、マンモス・レイクに向けて大移動を開始した。 サンディエゴ・フリーウエイから14号線、395号線を雨に泣かされたワシントンの恨みをぶぢまけながら、ひた走って行った。そして、砂漠を突き抜ける気の遠くなるようなこの一本道は、誰が言うともなく、いつしかバルーン・ロードと名付けられていた。まるで6日間も降り込められた雨など嘘だったような、快晴だ。われわれを乗せたスポーツ・バンは、進行方向右にデスバレー、左にシェラネバタ山脈を見ながら、快調なぺ一スで走って行く。途中、通過したビショップという街は、ロデオで有名な街だという。 そして、マンモス・レイクに到着した時には、あのカリフォルニアの青い空も黄昏て、今はもう星降るダーク・ブルーの空だった。“いよいよ撮影もクライマックスを迎えるのだ”そんな緊張感が長旅に疲れきったクルーたちの顔を、かろうじて引き締めている。ちょっと感動的な光景だった。 といった按配。更に、その翌年1980年(昭和55年)には、会社でなんと自分のグループを持てるようになったのである。 |
1977年(昭和52年) |
出来事
■王選手がホームラン世界記録
756号を達成 流行語 ■カラオケ(空のオーケストラ、つまり伴奏だけを録音したもの。 ヒット曲 1位 渚のシンドバッド ピンク・レディー 94.5万枚 ■日本レコード大賞:勝手にしやがれ(沢田研二) |
1978年(昭和53年) |
出来事
■60階建の超高層ビル「サンシャイン60」が開館 流行語 ■口裂け女(小・中学生の間で流行した話 発生は岐阜県といわれる) ヒット曲 1位 UFO ピンク・レディー 155.4万枚 ■日本レコード大賞:UFO(ピンク・レディー) |
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