ハマダ伝・PART2 |
うたの記憶 |
「星は何でも知っている」 |
子どもの頃の話を続けますが、「星は何でも知っている」は、私の心をときめかせた一曲であります。「生まれて初めての甘いキッスに」というフレーズは、もうドキドキものでした。この歌は、作曲家として今は大家の平尾昌晃氏が、ロカビリー歌手時代(「平尾昌章」名義)に歌い、1958年製作の日活映画『星は何でも知っている』の主題歌にもなり大ヒットした曲です。
星は何でも知っている 星は何でも知っている セリフ:「あの娘を泣かせたのは俺らなんだ。 さて、三平(みひら)の悦ちゃんのことは「ハマダ伝」にも書いておりますが、ここでも載録したいと思います。 三平の悦ちゃんは、国道に面して老舗ういろうの近くの対面(といめん)にあった、三平(さんぺい)モータースというオートバイ屋の一人息子でした。私の通っていた花園幼稚園の同級生で、悦ちゃん一人だけが、いつも品のいいお婆ちゃんと一緒に通園していたのです。お婆ちゃんは、薄い藤色の入ったレンズを入れた金縁目がねを掛けていたのが印象的でした。 その頃、三平(さんぺい)モータースは、時流に乗っていたのか頗る景気がいいようでした。悦ちゃんとは、一人っ子どうしということもあり、とても仲良しで、小学生になってからもよく悦ちゃんの家に遊びに行きました。悦ちゃんは、私のことをてっちゃんと呼ばずに、何故かはまだクンと呼んでいました。悦ちゃんの家には、まだ当然うちにはないテレビジョンがあり、もちろん力道山とルーテーズの試合を見せてもらったし、名犬リンチンチンや、ラッシー、ローハイドも見せてもらいました。 そんな悦ちゃんの家には、電蓄もありました。私は、そこで平尾 昌晃の「星は何でも知っている」を何度も何度も聴かせてもらったのです。 「ザ・20世紀」というサイトを見ると、この歌が発売された、1958年(昭和33年には、東京の日劇で「第1回ウエスタンカーニバル」を開催。平尾昌晃、ミッキー・カーチス、山下敬二郎の「ロカビリー三人男」がデビュー。1週間で6万3000人を動員する大騒ぎになりロカビリー・ブームとなったとありました。 この年、流行った言葉は、「イカす」(石原裕次郎)
洒落ている、などの意味。 <1958年・日本のヒット曲・流行歌> ・夕焼けとんび(三橋美智也)(3月発売)
・だからいったじゃないの(松山恵子)(3月発売)
・ダイアナ(平尾昌章)[作曲:ポール・アンカ](3月発売)
・嵐を呼ぶ男(石原裕次郎)(4月発売)
・星は何でも知っている(平尾昌章)[作詞:水島哲](7月発売)
・おーい中村君(若原一郎)(8月発売) ・からたち日記(島倉千代子)(11月発売)
又、Wikipedia「平尾昌晃」には、1957年、ジャズ喫茶「テネシー」に出演していた際、ステージを見た渡辺プロの渡辺美佐と映画監督井上梅次に見初められ、同年に公開された石原裕次郎主演の『嵐を呼ぶ男』に出演。自身としても、翌1958年1月キングレコードより「リトル・ダーリン」でソロ・デビュー。「日劇ウエスタンカーニバル」等で爆発的な大人気を博し、1958年には「星は何でも知っている」、翌年には「ミヨチャン」が大ヒットしたとありました。 この「ミヨチャン」も、大好きな曲でした。 ミヨちゃん 「みなさん、まあ僕の話を聞いて下さい。 僕のかわいいミヨちゃんは ちっとも美人じゃないけれど それでもいつかは逢える日を 父さん母さんうらむじゃないが 「そんなわけで、僕の初恋は 今にみていろ僕だって DVDに録画して取ってありますが、「作曲家 平尾昌晃の世界」の中で、この「ミヨちゃん」の「今にみていろ僕だって」のフレーズを自分の人生の励みにしてきたと言っていたのがとても印象的でした。私も大学を卒業してCMプロダクションで制作進行をしていた駆け出しの頃、やはり、「今にみていろ僕だって」の思いを強く抱いておりました。 |
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